「本は、これから」を読む

 池澤夏樹編「本は、これから」(岩波新書 ISBN978-4-00-431280-2)を読む。これは手練れの読書家や本の関係者36人からの電子書籍時代を迎えてのまさに「これからの本」についての寄稿をまとめたものである。
 
 電子書籍については、手放しの賛成というものはすくなく、どちらかといえば懐疑的な論調があふれている。書き手の選び方にもよるのだろう。しかし中には本に対するフェティッシュな思いが出過ぎていてトンデモになっている論まであっておもしろい。残りページ数の(厚み)をみることで本の全体を鳥瞰できる(内田樹) とか、本のもつ紙のマージン(余白)が大事だという指摘(桂川潤)である。前者はアナログの残ページ表示グラフでもつければいいことだし、後者は電子書籍だって設定次第でいくらでもマージンなど取ることができる。

 要はこうしたフェティッシュな紙の本の優越性を語る言葉には紙の本の本質を見誤っている上に、決定的に電子書籍の技術に対する誤解がある。電子書籍はまだできたばかり、これからいくらでも本に近づけようとすれば近づけられるし、まったく独自の進化を遂げる可能性もある。それを抜きに、赤子に等しいKindleとiPadだけ見て、優劣を論じるというのは建設的ではない。

 おそらく、みなさん本が好きだし、それぞれ好きなテクストの読書体験に豊穣な思いをお持ちなのだろう。それと、テクストが紙の上にのっていたということに無理にこじつけているのではないだろうか。好きなものはそれをとりまくすべてが好き。やがて、とりまくものそのものか好きになるという奴だと思う。テクストが好き、それを載せていた紙の本が好き、紙の本自体が好きという論理だ。

 確かに、現在、ちまたに流通しているテキストが紙の本とそれが成立したときに主流だった活版という印刷技術とわかちがたく結びついているのは事実だと思う。紙の本という形態があるからこそのテクストというのは充分考えられる。それぞれ、行立てやページ構成を考えて作られた本というのはいくらでもある。しかし、それは紙という枠があってこその制約であって、今、電子本の時代にあって、そうした制約がなくなれば新たな表現形式がうまれることこそ自然ではないか。

 逆に、印刷術が成立する以前の源氏物語やギリシャ哲学などを読むには電子本は適しているかもしれない。電子本の画面スクロールという形式はコーデックス(冊子体)よりボリューム(巻物に近い)。絵巻物などは、冊子体だと断片を切ってみせるしかないが、それは絵巻物の筆者の意図することではないだろう。むしろ、横長のワイドディスプレイで横にスクロールしながら読んだ方が本来の絵巻物の読み方に近い。

 本書で多くの人が指摘しているように私も本は残ると思う。しかし、それは上野千鶴子が指摘するように「伝統工芸品」としてだ。テクスト(上野はコンテンツと呼ぶ)の流通こそが大事であって、それを載せる媒体がなんであろうと本来どうでもいい話だ。今、大騒ぎして電子書籍を云々しているのは産業としての出版者や書店、そして印刷業者をいかに守るかという話なのである。私も自戒をこめて言うならば、それぞれの利害関係を抜きにして純粋にテクストの未来を語ることはできなくなっている。これは、本に対するフェティッシュな思いを持つ人も自分のフェティッシュな思いという利害関係から逃れられないのと同じ事だ。本を守るのかテクストを守るのかといわれれば、私は業者としては本を読書人としてはテクストを守ると言わざるをえない。

 最後に私は紀田順一郎のこの文章にもっとも共感できた。当たり前の結論で恐縮だが、電子書籍が内向きの権益保護に堕すのではなく積極的にメリットを見いだすということなのだ。

「いま、電子書籍の時代を迎え、出版業界は一様に不安をかかえている。著作者も明確な結論を出せる段階にないと言えるが、一つ確実なことは、現在の紙の本の水準をそのまま電子書籍に移行しただけでは単なる電子的複製というにとどまり、一件多様に見える議論も内向きの権益保護のためでしか亡く、新しい書物文化創造にはつながるまいということだ。(中略)
電子化を奇貨として、日本の書籍を何らかの程度に国際商品へと衣替えしようという出版人や著作者は現れないものか」

 蛇足だが、今、本書のISBNを引き写していて、岩波書店のISBN出版者コードが00なのに気がついた。ISBN978-4-「00」-431280-2である。出版者の元祖というべき出版者が本の未来を論じる姿勢はやはり真摯だ。

背信の科学者たち

OLJとは直接関係がないが、あまりにおもしろかったので、紹介したい。

「背信の科学者たち-論文捏造、データ改ざんはなぜ繰り返されるのか」(ウィリアム・ブロード、ニコラス・ウエイド 牧野賢治訳 講談社ブルーバックス)。

原著は20年ぐらいのものだが、日本の状況が20年前のアメリカにそっくりだということがわかる。基本的に著者の主張は科学はかならずしも「アプリオリな真実を解き明かすものではない」ということだ。科学は他の分野と違って、実験という議論の余地がない方法論が基礎になっているから、真実への偽装はおこらないとする思いこみこそが捏造を生んでしまうという。

科学の認知構造はいわゆる「仮説演繹法」であり、それを保証するのが実験だ。実験は再現可能であり、もし嘘をついたとしてもすぐに見破られる。また、論文はピアレビュー(同僚科学者による審査)を通じて検証されるので疑わしいものはその段階で排除され、結果として科学は真実の体系として維持される。このうことを我々は無前提に信じてきた。しかし著書はこれこそが思いこみだという。まず、実験については他の研究者のおこなった実験の追試は滅多におこなわれないということを指摘する。研究とはオリジナリティが大切であり、他の研究者が行った実験を追試しても、評価にはならないからだ。結果として捏造された実験データであっても、それが覆されることは滅多にない。また、ビアレビューも体裁さえ整っていれば、いちいち実験を疑うことはしないし、そもそもあまりに膨大な論文が生産されるので検証などおこなわれない。結果として、捏造や剽窃がまかり通るというわけである。

2005年韓国を揺るがしたヒトES細胞事件のように結果が画期的なものであれば、検証される可能性大きく、事実暴かれたわけだが、そうでないような小さな発見については巧妙な捏造工作が行われればまず発見は不可能という。

では、なぜ科学者は捏造の誘惑に駆られるのだろうか。著者は現在の科学者が真実を求める求道者ではなく、一職業人であるからという。これは現在に限った話ではなく、歴史的にみてもプトレマイオスもガリレイもメンデルも捏造を行った形跡があるという。現在それがめだつのは、科学の世界が圧倒的な競争社会だからだ。有利な就職条件をえるために、新たな研究費を獲得するために、論文の数と評価が必要だからだ。その中で、結果をだせないとき、科学者は捏造の誘惑にかられてしまう。最初はちょっとした恣意的なデータ選択かもしれない。しかし、それが通ってしまったとき、より本格的な捏造へと足をふみだしてしまい、最後には後戻りのできないところにいってしまう。

「欺瞞は科学そのものの中に存在することを認めることによってのみ、科学の本質が理解できる」

重い。

(2007.2.3)

ウェブ進化論

梅田望夫「ウェブ進化論」(ちくま新書 2006.2.10)という本を読んだ。これはもう絶対のおすすめ。特にアマゾンの「なか身!検索」に違和感を感じる向きには、相手側の論理を知る上でも貴重な文献だろう。インターネットの最新情報とそれにもとづくメディアの変化を追った本というのはあまたある。私も、この世界をウォッチするものとして、様々な本を読ませていただいたし、私自身「本は変わる!」という著書の中で、紹介もしてきた。しかし、この本はまったく新しい存在に変わろうとしている現在のインターネット(Web2.0)を提示してくれていて、これはもうメディア関係者は必読だろう。

 いろいろな現象が紹介されているが、私のみるところ、インターネットの玉石混交問題をテクノロジーで乗り切ろうとするグーグルという構図が、著者のもっとも主張したいところではないか。インターネットの玉石混交問題とは、インターネットには誰でも作者となれるという面があるが、それ故にメディアとしては、あまりに質の低い情報つまり石が多く、その中から質の高い情報、「玉」をみいだすのが難しくて実際上使い物にならないというものである。インターネットのメデイアにおけるあまりの破壊的影響力故に、本の作り手が主張してやまない理屈だった。

 本当に役に立つ情報がインターネットでただで手に入れられてしまえば、誰も本など買わなくなる。これは誰でもそう思う。情報それ自体はいくらでも手に入れられるがその中で、正確で有用な情報を選んで、読みやすい形で提示するのが本の作者であり、編集者であり、出版社だと思ってきた。ネット時代となって、携帯電子本のようなものが普及したとしても編集という行為は残るというのが、本の作り手の最後の砦だったはずだ。これがグーグルでかわるという。もちろん「玉石混交問題を解決する糸口がITの成熟によってもたらされつつある」と表現は慎重だが。

 その実例としてWikipediaやオープンソースをあげている。インターネット百科事典Wikipediaの実験の紹介は秀逸。「Wikipediaの記述をわざと誤りに書きかえたところ、わずか数時間で修正された」というものだ。インターネットの情報という石は「個」のネット上の営みが集積されることで玉に磨かれていくということなのだ。そしてそれを保証するのがテクノロジーという割り切り。

うーん。落ち着いて反論すれば、いくらでもできそうな気はするけれど、一本とられたな。というのが今のところの正直な印象ではある。

(2006.2.10)

教科書に載らないニッポンのインターネットの歴史教科書

 オンラインジャーナルとは直接、関係ないが、「教科書に載らないニッポンのインターネットの歴史教科書」翔泳社(ISBN4-7981-0657-7 C3055 \2380)が、おもしろい。オンラインジャーナルがいわばインターネットのエリートとするなら、この本で詳細にたどられた日記サイトから掲示板、ファイル交換ソフトにいたる一連の流れは、表にでてこない日陰の存在である。ファイル交換ソフトのWinnyはどう抗弁したとしても著作権侵害の問題を引きずっているし、巨大掲示板2ちゃんねるの匿名書き込みの名誉毀損や自殺教唆はほめられたものではない。しかしだからこそ、この裏の世界を詳細にたどったこの本はインターネットという新しい媒体に食いついていった人々の営みをつたえていて興味深い。

 オンラインジャーナルがともすれば、官主導の建前の中で七転八倒しているのに比べて、なんと自由で刺激に満ちた世界だろう。私も長年のネット生活の中でこういった世界の末端をかいま見てはいた。しかし、やはり大手の@niftyを活動の場とし、やがてオンラインジャーナルをビジネスとしてしまった私には、近寄りたくとも近寄れない世界ではあった。もちろん、私はこうした裏世界すべてを肯定する気はない。裏は裏であり、健全な社会常識の世界では許されないものだろう。だが、ただ、ただ、羨ましい。インターネットとこういう軽やかに戯れる方向性もあったのだなあということを思ってしまうのだ。

 ともあれ、時々、表にあらわれて、われわれをあわてさせるインターネットの裏社会の意味を知りたい向きには絶好の一冊。

2005/8/10