男親の読み聞かせ

 「読み聞かせをすれば、子供がぐんぐん伸びる」という言葉を信じたわけではないが、男の子2人の子供が小さい頃よく本を読んでやった。男親と子供との関わりというと、外でキャッチボールというのが正しいらしいのだが、根っからのインドア派の私は子供との関わりというと部屋で模型をくみたてたり、一緒に本を読んでやったりということになるのだ。

 本当にちいさいころは定番どおり、絵本を読んでやった。1歳児用、2歳児用とこまごまといろんな絵本があった。絵本にはページをめくるたびに驚かせたり、喜ばせたりと仕掛けがあった。子供は素直で、驚くところでは驚いてくれたし、喜ぶところでは喜んでくれた。このころ子供に人気だったのは、たかくあけみの「やぎのめーどん」である。ただただ、やぎと子供が遊んでいるだけなのだが、「めーどん、めーどん、めーめーどん」というリズミカルな表現が読んでいても楽しかったし、子供も喜んでいた。夜になると、子供がこの絵本をもってきてろくに言葉も話せないのに「めーどん、めーどん」と言って読むのをせがむのである。

 もうすこし大きくなると、絵本では飽き足らないのか、図鑑が好きになった。恐竜や太古のほ乳類といった図鑑がお好みだった。ただ、名前が書いてあるだけなので、そのまま読んだのではつまらない。恐竜の名前を「ぱあ-きけふあろおさあうるすう(パキケファロサウルス)」と大げさに読んでやると、キャッキャッ喜んだ。おかげで恐竜の名前には詳しくなったし、「エレファスファルコネリ」なんていう、わたしたちの子供のころには聞いたことも見たこともない動物の名前を知ることになった。ちょうど恐竜にも羽毛があったというのが判明し、一気に恐竜の復元図がかわったころだった。それにいちいちこちらが感心していたら、子供に伝染したのか。ある日、よそのおかあさんにかたっぱしから「ねえねえ知ってる。恐竜にも羽があったんだよ」と語りかけているのには少し恥ずかしかった。子供は正直で、こちらの感心がそのまま子供の心にもダイレクトに伝わるのだ。

 恐竜の名前を連呼するだけでは、情操上問題があるのではないかと妻が言うので、寝る前に童話を読んでやるというのもやった。ただ、字ばかりの本には子供はあまり興味をしめさない。「よい子の童話集」に挿し絵も載っているが、いかにも上品で、恐竜の絵に慣れている子供たちは喜ばない。そこで、インドア派の必殺技が登場だ。若いときから、能や狂言、歌舞伎を見続けているし、演劇も経験あるので、抑揚と感情を思いっきりこめて読む。これは結構うけたのだが、面白いだろうとあまりやりすぎると、子供はむしろしらけてしまうということもわかった。ほどほどが大事なのだ。

 童話の読み聞かせというと、思い出すことがある。あれは確か寝床でオスカーワイルドの「幸福な王子」を読んでやっていたときだ。もちろん、このお話は派手な話ではないし、最後は悲しい。あまり感情をこめないで淡々と読んでいた。子供たちは、おとなしく聞いていたかな。そして、最後にかかるころだった。泣いていたのだ。いや、子供ではなく、一緒に寝ていた妻が。隣で週刊誌をみながら、実は「幸福な王子」を一緒に聞いていたのだ。子供たちは泣くところまではいかなかったけれど、静かになっていた。たぶん、幼な心に感動していたのだろう。私は、子供たちをぎゅっと抱いてやった。家族みんなで、感動を共有できる。これが読み聞かせの本当の意味なんだなあと思った。

 その後、子供たちがぐんぐん伸びたかどうかは、もう少ししないとわからない。でも、2人ともすごく積極的で、クリエイティブな大人になるつつあることだけは確かだと思う。いいですね。読み聞かせ。


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『やぎのめーどん』たかくあけみ 福音館書店 ISBN978-4-8340-8073-5

縦書きの必然性

 インターネットの世界は基本的に横書きである。だから今、みなさんが目にしているプログは横書きのはずである。ところが、このコラムも単行本にするときは縦書きにする。最新刊『電子書籍は本の夢を見るか』も縦書きである。だから元々横書き用の原稿を縦書きに直した。私の本に限らず、日本では大多数の本や雑誌は未だに縦書きである。科学読み物シリーズとして名高い講談社のブルーバックスも、基本は縦書きだ。相対性理論だろうが、量子力学だろうが縦書きで読む。これは世界では希有な例だろう。

 もっとも横書きを縦書きに直すと言っても、今はワープロソフトの横書き指定を縦書きにするだけで、何百ページでも一気に縦書きになってくれる。だから横書きであろうが縦書きであろうが、技術的には何も気にすることはないようにも思われるかもしれないが、そう甘くない。実は単行本化の第一関門が縦書きへの変換なのだ。

 まず、やっかいなのは、英文。元々横書きが原則のものを縦書きにするわけだから、どうにも困る。XMLのような三字の略語くらいなら、単に全角に置き換えて縦に並べてしまえば良い。ところがWindowsという表記になると、「W」「i」「n」「d」「o」「w」「s」と縦に並べると相当間抜けである。だからカタカナで「ウィンドウズ」と書いたりする。もっともカタカナ化ですべて解決するわけでなく「ウィンドウズ」はまだしも「アクロバット」とか「アンドロイド」ではなんかイメージが違うし、別の意味にもとれてしまう。数字もそうだ。横書きなら2016とさらって書いてしまえば良いが、縦書きとなると2016を横に寝かしたままにするか、「2」「0」「1」「6」と縦に並べる、あるいは二〇一六と漢数字にしてしまうなどの選択肢ができる。漢数字にするとしたって、二〇一六もあれば二千十六もありうる。縦書き化はあらかじめ原則を決めた上で、一個づつ検討する必要がある。縦書きと横書きは別物なのだ。単に、文章を表示だけ縦にしたり横にしたりしてもうまくいかない。

 ところが、電子の世界では縦書きと横書きが理論上は自由自在だ。そして、パソコンもスマホもタブレットも横書きがデフォルトだから、若者は、横書きの画面に慣れてしまっている。新聞サイトなどでも、縦書きの紙面をクリックすると同じ記事が横書きでただちにHTML表示されたりする。電子の世界は読む方のわがままが通る。文字の大きさやフォントもいくらでも変えられる。これが紙の本との最大の違いだ。そして、縦横さえ自由だから読み手は横書きで読みたいと思えば、横書きで読んでしまうだろう。

 電子書籍の世界でこそ縦書き表示は定着してきたが、WEBでは縦書き対応がされてこなかった。縦書きで読もうにも横書きしか表示できなかったのだ。特殊なソフトを使うか、PDFで表示しない限り縦書きはインターネットの世界では使えなかった。これではいくら縦書きの著作は縦書きでといっても、表示すらできなかったのだ。

 確かに、HTML5とCSS3の登場で、縦書きWEB表示は可能なっている。しかし、まだあまり縦書きウェブサイトにはお目にかからない。ブラウザによって縦書きへの対応が違ったりするのでWEB制作者はおいそれとは使えないのだ。これではいくら縦書きが可能と言っても絵に描いた餅だ。

 そうこうしているうちに、横書きにしか馴染みのない世代がどんどん増えてきている。紙の本どころか電子書籍も読まないで、ホームページやSNSばかり見ている層だ。しばらくしたら源氏物語を横書きで読んでもなんの違和感もない世代が登場するだろう。そうなれば、このWEB縦書き指定ですら単に文学史の研究者にしか必要がないものとなってしまう。あるいは文字は意味を表現できればいいのであって、縦書きとか横書きとかの体裁にこだわる必然性はないのかもしれない。

 縦書きというのは紙の本と一緒に消滅する運命なのだろうか。

本が見つからない

最近はこのコラムに限らず、文章を書くことが多いのだが、書くためには読まなければならない。ピンポイントで資料として読む場合は別として、何が役に立つかわからないから、とりあえずどんどん読んで、とにかく知識として仕入れておく。細かいことまでは覚えない。書くとき必要になったら本棚前に行って件の本を探して、内容を確認すればいい。

 だから、必要なとき本がそこになくては困るわけで、私は基本的に本は買う。買って、手元に置いておく。それに重要だと思ったところは折ったり、線を引いたりもするから図書館から借りてすますというわけにはいかないのだ。

 そして、読んだ本はとりあえず執筆用パソコンそばの一時保存用本棚に置いておく。最近読んだ本は、書く際、資料として参照する場合が多いから、最近読んだ本ほど近くに置くというのは合理的なのだ。その後、半年か一年ぐらいで、永久保存用の本棚にお引っ越し願う。この方式だと最新の資料は確実に探し出せるのである。

 ところが、つい最近読んだ本のはずなのに探しまわってもでてこないということがあった。勘違いして永久保存用本棚に移行したかとそちらも探し回ったがない。ベッドサイドや家内の本棚まで行ってもない。

 おかしいな、俺も老化して痴呆が始まったかと思って、はたと気がついた。この本、電子書籍で読んだのだ。物理的な本としては出てこないはずだ。

 ここでわかったことがある。電子書籍で読んでも読書の記憶としては、まったく紙の本で読んだのと変わらないということだ。つまり本と言うのは、外見ではなくて内容なのだ。記憶の中では紙であろうが電子であろうが、読書体験としては差がない。記憶の中では同一のものと認識されている。

 そしてもうひとつは電子書籍読書記憶の減衰の速さだ。いくら内容としては同じと認識したといっても、紙か電子かを頭の中で区別できないぐらい電子版での読書体験が記憶に残っていない。つまり忘れてしまい易いのだ。一例だけだし、私の個人的な体験でしかないので一般化はできないとは思うが、これは電子書籍が物理実体がないことが一因ではないか。

 私の一時保存本棚はそれこそ毎日、本を出し入れするし、資料として本を探すために眺め回す。結局、最近読んだ本の背表紙を毎日眺めていることになる。これが重要なのだ。記憶は、重ねれば重ねるほど残りやすくなる。一度読んだだけではなかなか覚えられなくても二度三度読んでいると、だんだん記憶として定着し、最後には忘れなくなる。もちろん一時保存本棚の本の内容までは毎日読んでいるわけではない。ただ単に背表紙を眺めているだけである。

 それでもこの背表紙を眺めるという行為が、「あの本を読んだ」という記憶に繋がり、内容の記憶にまで繋がっているようだ。この背表紙ブラウジングがない電子書籍の場合、記憶に残りにくいのではないか。

 電子書籍にも今まで買ったコンテンツの表紙画像を並べる機能はあるが、なぜか記憶に残りにくい。電子書籍は本を取り出したり、並べ替えたり、永久保存本棚へのひっこしがない。電子書籍は物理的、肉体的接触がなく、視覚にしか訴えていない。紙の本は、視覚だけでなく、重さを感じ、紙やインクの匂いを嗅ぎ、手触りを感じ、紙のめくれる音まで聞く。さすがには味わうことはできないので、五感総動員ではないが。

 もちろん、だから電子書籍がダメだと言っているわけではない。今は、この強烈な感覚経験である紙の読書と対等に比較され、しかも圧倒的に紙の本の読書の方が多いから、印象に残りにくいだけかもしれない。今後、電子書籍で読んだ本の記憶を電子的手段でより記憶しやすくすることは可能になるだろう。でもそれまでの間、電子書籍で読んだ本の記憶は意識して記憶の中で整理しておかないと、あとあと資料として利用しにくくなってしまいかねない。

「紙の」校正

 新しい単行本を印刷学会出版部から出します。現在、校正中なのだが、さて、今回はその校正の話である。

 印刷学会出版部の中村さんから「『紙の』校正はいりますか」というメールが来た。つまり校正は紙を送らず、PDFによる電子校正だけでいいかという質問なのだ。少し前までは、校正というと紙で行うことが当たり前だった。校正刷りはゲラ刷りとも言う。「ゲラ」は活版用語でもあり、あまり最近では聞かなくなったが、わら半紙をコヨリで綴じたゲラ刷りを出版社や著者に届けるのが印刷会社営業の最大の仕事だった。ゲラをなくしたとか、初校と再校が入れ違ったというような校正にまつわる悲喜劇が印刷会社では日常茶飯に起こっていた。

 これが急速に電子校正、特にPDFでの校正に変わって来ている。

 PDFによる電子校正は便利である。まず第一、紙という物理媒体のやりとりがないから、郵送の必要も、営業の配達の要もない。印刷所で校正ができれば、すぐにメール添付などで著者のもとに届く。少し以前は、PDFで届けても赤入れするには、一度著者のところでPDFをプリントアウトしてもらわねばならず、嫌う著者もいたが、最近のバージョンのPDFだったら、データの中に直接訂正を書き込むことも可能だ。文言の挿入などは、PDFに挿入された文言がそのまま訂正データにもなる。そして著者校ができあがったら、出版社の編集部と印刷所に添付ファイルやファイル転送で同時に送られてくる。

 それでも、著者が多数に渡る雑誌などは、ひとつのゲラを巡ってそれぞれの著者や編集部が別々に赤字を入れたりして収拾がつかなくなることがある。こういう時はPDFでは管理しにくいが、現在では校正専用のネットワークシステムで、そうした複雑な校正でも、誰が入れた訂正かを同定できたり、権限を与えて最終責任を明確にする専用システムもできている。こうなると著者・編集部・印刷所も含めた総合電子編集システムということになる。

 最近では、著者の側でも電子での校正に慣れ、紙の校正を送ろうものなら「今どき、紙で校正を送ってくるな」と怒られることさえある。この例でわかる通り、最近の校正のデフォルトは電子である。だからこそ冒頭中村さんの「紙の」というおことわりが必要になってくるわけだ。単に校正というとき、それは電子校正である。

 そういえば出版現場から「紙の」という注釈をつけなければ意味が通らないものが増えた。たとえば原稿。著作はワープロやパソコンで書かれ、紙の原稿はよほど特殊なものか、年配者からのものしかない。もちろん、紙の原稿は「紙の」原稿と断りがないと印刷現場が混乱する。プリントアウトはあるが、これは「紙」原稿とは言わない。プリントアウトはかならずもとになったデータがあるから原稿としてはそちらを使うからだ。

 原稿から「紙」が消え、今校正からも「紙」が消えつつある。メールも冒頭にあるように「電子」メールとも言わなくなった。メールと言えば、電子メールのことで、紙の手紙を送るときは「紙の」とか「郵政省の」とかつけなければ通じなくなってきた。出版の現場で進みつつある校正の電子化も、すでに「電子校正」などというような妙な言い方はしない。単なる「校正」である。

 そして、いまのところ、書籍といえば紙の書籍のことだし、電子書籍はわざわざ「電子」書籍と言っている。が、これも書籍のデフォルトが「電子」書籍となり、「紙の」書籍には「紙の」をつけねばならないときは近いのかもしれない。

 ところで、校正中の本だが、「印刷会社とデジタル印刷」という題名で、デジタル印刷という領域であるにせよ「紙の」印刷の復権をうたったものである。ただ、残念ながら書籍印刷の復権の話ではない。デジタルで復権するのはパッケージや商業印刷である。そこは私でも首尾一貫しているのだ。

方眼紙EXCEL

 EXCELは便利なソフトである。縦横の行と列がすぐに計算できてしまう。経理全般に役立つのはもちろんだが、経営者としては、給与シミュレーションとか、資金繰り計画などに重宝する。EXCELが、学生のころにあれば、実験データの集計なんかあっというまにできたのにと今更ながら。

 印刷会社をやっていて、最近、原稿がEXCELファィルというのが増えてきているように思う。ただし、これはEXCELが集計に便利だということより、単なる罫表作成用ソフトとしてEXCELを使っているのではないかと思えるものが多い。集計機能なんてまるで使われておらず、律儀に文字や数字を枠内に並べているだけだったりする。普通、文字原稿はWORDファイルで入稿されるが、WORDで罫表を作るのはあまりに面倒で、よほど慣れた人でないと使いこなせないことが背景にあるとみた。

 そもそも、日本人は罫表が好きだ。なんでもかんでも線で囲みたがる。枠の中にとじこめたがる。これは日本語が枠の中に収まりやすいということも一因だろう。欧米の場合、いわゆるプロポーショナルスペーシングフォントになる上に、単語の途中で行を切ることを嫌うから、枠の中に収まりづらい。だから、欧米では縦罫を使わず、横罫とTABだけで作表をすませてしまう。WORDはその文化の中で作られたソフトであり、縦罫を多用する日本語では使いにくいのかも知れない。

 これがEXCELなら、縦横に罫線が引けて、自由に罫表が作れる。慣れた人だと役所の申請書のような複雑怪奇なフォーマットでもEXCELで作り込んでくる。この際、多用されるようになってきているのが、方眼紙EXCELと言われる技法だ。これはデフォルトでは横長の矩形であるセルを細かい正方形のセルに設定してしまい、必要に応じて、セルを結合してひとつの枠として使うというものだ。

 この方眼紙EXCEL技法は縦横が整然と並んでいない表の場合、威力を発揮する。住所の欄は長く、名前のふりがなの欄の幅は狭く、チェックボックスは横幅の小さい枠が大量にというような帳票だ。大きい欄の場合は、方眼紙に区切られたセルを縦3升、横20升くらいを結合して1セルにする。小さい場合は、1升1セルでもいい。これで見た目は綺麗な帳票ができる。

 まさしく、方眼紙だ。昔の版下のように方眼紙の上にロットリングで線を引いたり、写植を貼り込むかわりに、EXCELのセルを細かくすることで台紙として使っているわけだ。

 こんな使い方は、開発したマイクロソフト自身は想定もしていなかったことだろう。罫表好きの日本人に合わせた工夫だなあと思う。見事なものだと、本当に版下として使えてしまうレベルのものができてしまう。

 もちろん、こんな方眼紙EXCELというような使い方は邪道である。見た目を優先させた作り方であり、コンピュータの使い方としては正しくないからだ。方眼紙EXCELでは本来のEXCELの目的としているデータベースとして使うことができない。DTPの罫表機能の代替としてEXCELを使っているに過ぎない。

 そもそも、データベースとして使えないような申請書形式の帳票って意味があるのだろうか。私もよく役所の申請書や各種の業界団体の入会届けに罫表でいっぱい囲まれた紙のフォームに記入することを求められる。これが実にめんどくさい。手書きなんてとうの昔にできなくなっているので、だいたいはフォームをスキャンして、Indesignに画像として貼り付け、その上で、テキストを書き込む。しかし、これはあまりにばかばかしい。これぐらいならWEB登録させるか。シンプルEXCELにしてもらいたいと思う。

 方眼紙EXCELは紙帳票の時代から、コンピュータデータベースの時代の狭間に咲いたあだ花のような気がしてならない。

本の解剖学

「本の解剖学」というワークショップを図書館の依頼で立て続けに行った。参加者に本(特に古い上製本)をカッターで解体してもらうというただそれだけの試みなのだが、参加者は単に本をカッターで切り刻むのではない。見返しをはがし、表紙を取り去り、寒冷紗を抜き、かがりの糸を切って折丁をばらぱらにするという製本と逆の工程を体験してもらい、逆の面から製本と印刷を理解してもらおうというものだ。図書館で告知したイベントということもあるが、本がなにより好きという人が多く、参加者全員熱心に取り組んでいただいた。

 もっとも、実際の解剖作業はすんなりとはいかない。参加者一同カッター片手に苦闘されていた。みなさんもやっていただくとわかると思うが、「本の解剖」は簡単なことではない。簡単に壊れないからこその製本であって、そもそも本がちょっとカッターで切ったぐらいで分解するようであっては本の役割を果たさない。表紙を剥がすという一見、単純な行為にしても、大変な力と技がいる。表紙は糊で強力に本文と接着されていて、無理に剥がそうとしたら破れてしまう。参加者は、その強力さに「本に対する職人の思いいれ」を感じるようだ。本文である中身は柔らかい紙を使って読みやすく、外は中身を保護するため硬く堅牢に、本は実にうまく作られている。

参加者には解剖ひとひとつの工程が新鮮だったらしく、表紙をうまく剥がして寒冷紗が見事にとりだせたりすると大喜びである。たぶん、こうした喜びは、自分たちが愛してやまない本という物の成り立ちを知った喜びだろうと思う。たとえば時計の解体で、こんなに喜ばれ、興味を持ってもらえたとは思えない。図書館もご多分にもれず、電子化の波に翻弄されているわけだけれど、「物体としての本」への愛着は館員も利用者もみなさん人一倍お持ちのようだ。本はこうして印刷製本業という本を愛する人々により作られ、図書館員のような本を愛する人々により守られている。そうしたことを実感していただけたよいイベントだったと自負している。あとのアンケートでも非常に評判がよく、新聞にも記事が載るなど反響も大きかった。

 こうして見ると、まだまだ本の需要は底堅いなと思うのだ。さんざん電子書籍の旗をふっておいて申し訳ないが、やはり印刷業界は「物としての印刷物」があってこそと思えるようになってきた。

 電子書籍時代にあって、印刷会社はどう生き抜いていくべきか。これにはいろいろ方向性があるけれど、ひとつ間違いないのは印刷会社がIT関連で突っ走るというのは無理があるということだ。印刷業界隈でもIT関連で確かに華々しく成功している会社もあるけれど、そうではない会社もごまんとある。だいたい、印刷業界に限らず、あらゆる業界の人が電子書籍やWEBで一山あてようと虎視眈々と市場を狙っているのだ。その中で、ITに関して突出した技術力でもない限り、印刷会社が互して戦っていくというのは難しい。印刷会社は今まで培ってきた印刷会社としての強みを活かさなければ、ITに業態変更したところで、すでにある巨大なIT市場の中で埋没してしまうだけだ。

 もちろん、巷間言われているように、情報の電子化・ソフト化は必至だし、成長力もIT側にあるのは間違いない。だが、そのことに、印刷業界が右往左往する必要はないのではないか。印刷業界はIT社会の中で、IT系の会社とは違う場所からスタートできる。堅牢な表紙、それはまさしくハード。その中の情報こそソフトに分類されるけれど、ハードと組み合わせる部分はまだまだ印刷業界が勝負できる分野である。こちらには堅牢な本という仕組みとそれへの愛情という強い味方がある。もう一度この世界を突き詰めてみるというのも悪くない。

 そら、また上製本の自費出版の要望が来たぞ。こうなれば、500年後にも残る立派な本を作ってやろう。そのときデータが残っているか本が残っているかと、自問しつつ。