電子マンガはまだか

 電子書籍元年と言われたのは2010年だった。つまり今年2014年は電子書籍5年ということになる。今でも電子書籍端末自体の売り上げは良くないとも言われるが、タブレット端末やスマホでも電子書籍は読まれている。この3つは画面の大きさこそ違うが機能はもうほとんど同じだ。タブレットやスマホも含めれば、電子でコンテンツを読むというライフスタイルはもう日常の中にすっかり浸透しているのではないか。

 実際、電車の中で本や雑誌を拡げている人は少なくなった。たいていはスマホかタブレット画面に見入っている。もちろん、電子書籍コンテンツを読んでいる人はまだそれほど多くない。たいていはSNSかゲームだろう。結局は本や雑誌を読むのに費やされていた時間が電子コンテンツに食われている。これは紙の書籍であろうが電子書籍であろうが関係ない。書籍コンテンツという形態そのものが、もはや時代に取り残されつつあるのかもしれない。

 私も、電車の待ち時間とか、ちょっとした空き時間はスマホでSNSを眺めていることが多くなった。少し時間があれば読書するようにこころがけているが、なんとなく反応が気になって、SNS優先になってしまう。新聞も確かに紙では読まなくなった。朝一番、布団から抜けだす前に、ネット配信の新聞を読む癖がついてしまったからだ。

 ただ、本は文字物に限ればまだ紙で読むのが普通だ。長期の出張では紙の本は持ち歩くのに重いので、電子書籍にすることもあるが、なぜか頭にはいりにくい。慣れの問題だとも思うが、電子では線を引いたり、折ったり、切ったりといった使い方もしにくい。私は本は徹底的に使いつぶすタイプなのだが、紙の本の使いつぶしには慣れていても電子書籍ではその機能があっても難しい。いくら電子書籍でも線を引いたり、しおりを入れられると言われても、わざわざやる気にならない。電子書籍から自由にテキストを切り出したりできれば便利だろうが、なかなかこれはやらせてもらえそうにない。

 しかし、完全に電子へ移行してしまいそうなものがある。マンガだ。マンガは絵が中心だからだろうか、最初っから画面で読むことに抵抗を感じなかった。マンガを電子で読むことの利点は多い。

 第一は場所をとらないことだ。ごぞんじのようにマンガはすぐに巻数がふくれあがる。最近は何10巻になるのも珍しくはない。そして一巻読み終えるのも速いから、ちょっと熱中すれば20巻ぐらい一気読みしてしまう。20巻を紙のコミックスで出張に携えるのは現実的ではないし、家でもマンガをそろえだしたら最後、あっというまに本棚が占拠される。私は「こちら葛飾区亀有公園前派出所」を連載当初から全部買っていたが、150巻をこえるあたりで本箱がひとつ「こち亀」で占領される事態となってしまった。

 電子でマンガがさらに便利なのは、手持ちのマンガを読み終わって、続きの巻が読みたくなったら、電子だとただちにネットから入手できる事だ。真夜中であろうが、海外であろうが関係ない。文字の本ではひとつの小説が何巻にもわたるということ自体が少ないから、この次の巻が即座に読めるということのメリットが実感しにくいが、マンガでは次巻、次巻と買い進める利点は大きい。むしろ、読み始めたらとめどなく読んでしまえる方が問題かもしれない。

 ちょっと疲れた出張のかえり、なんとなく読み始めたマンガの次の巻がどうしても読みたくなった。連載時期から考えて、当然次の巻はでているはずだ。ネットに接続して探す。ところが、ネットショップに紙のコミックスの次巻はあれど、電子では発売されていない。電子書籍の普及を拒む出版社の無理解。紙の本での利益を確保するため、電子化は紙よりかなり遅らせるという出版社の戦略の犠牲になっているのだろうか。

 むむ。「電子版をもっと優先させろよ」と毒づいている印刷屋の私。

電子書籍は諸刃の剣

 電子書籍に関する議論がかまびすしい。現在の電子書籍端末を論って、懐疑的な人もいるが、実際に読んで見られることをお勧めする。活字を自分の好きなサイズに拡大して読める電子書籍の機能が、老眼鏡をかけて必至に細かい字を追わねばならない身には紙の本より便利であることに得心がいかれるはずだ。また、たとえ今の電子書籍端末が読みにくいものだとしても、電子書籍は市場に出たばかり。これからもっと読みやすい画面が開発されるだろうし、端末は薄く軽くなるだろう。なにより、電子書籍最大のメリットはそれが蔵書無限の図書館だということだ。通信機能を使えば、欲しいと思った時すぐにその本が現れる。評価の定まった古典を無料で堪能できるインターネットのサイトと電子書籍が結びつけば、いつでもどこでも無料で古典と親しめるという読書人にとって夢のような時代がやってくることになる。

 ただし電子書籍は残念ながら本ではない。本は紙を綴じたひとつの物理的実態だからこそ本だった。表紙もカバーもインクの匂いも含めて本なのだ。読み終わった本が一冊、また一冊と本箱に並んでこそ本なのだ。それに、紙の本の場合、いったん印刷されて書店に並んでしまったら、回収することはまず不可能。出来の悪い本をだせば返品のリスクもある。だからこそ、出版社は校正に万全を期し、確実に売れる部数を出版するというきめこまかな編集や営業政策をとってきた。これが結果として本の質を高めてきた。そして物理的実態としての本には印刷会社や製本会社の職人の思いが込められ、本屋の店頭での出会いを通じて、豊かな読書文化がかたちづくられてきた。

 今はまだ本の文化と電子書籍の文化は競合することもなく棲み分けている。むしろ電子書籍は過去に紙の本で培われてきた豊かな内容を電子化することで、あらたな読書文化を電子の世界に提供しようとしているかに見える。だが、この蜜月の時代は長くは続かない。これからは電子書籍オリジナルの内容が増えていくだろう。印刷と製本の工程がなく、紙もいらない電子書籍は出版を極めて容易にする。極端に言えば、作者の意志のみで出版が可能になる。印刷職人も、製本職人も、そして出版社の編集者もいらない。それで本が涵養してきた質が維持できるだろうか。とてもそうは思えない。

 いい本を作りたいという情熱が同じであれば、電子書籍でも質は低下しないとおっしゃる方もいるだろうが、今のインターネットの混沌をみると、とても信じられない。いい電子書籍もでるかもしれないが、それ以上に信頼性も質も保証されない悪い電子書籍が大量に出回る可能性が高い。そうした悪い電子書籍が安価もしくは無料で提供されれば、良くても高価な電子書籍は生き残れない。まして、紙代と製本代故に高価にならざるをえない紙の本は生き残れまい。電子書籍は単に新たな読書手段を提供するだけにとどまらず、紙の本の文化まで破壊しかねないのだ。

 紙の本をもう一度見直していただきたいところだが、電子書籍の利便性はもはや誰にも否定できないところまで来ている。だとしたら、電子書籍でも質が担保できる方策を考えて実行に移さなければ、読書文化は奈落に落ちる。


初出 京都新聞 私論公論 2011/5/27

iPadの実用性

 今更ながらiPadである。もちろん、iPadは出はじめのころに買って、ひととおり触ってみた。それはここでも報告済みだ。しかし、会社の備品として買ったため、社員にたらいまわしにされたり、研究用にと占有されたりで、私はその後まったく触れることもできなかった。それで個人で購入したのである。

 とはいっても、もとより実用性など期待していない。私は通勤手段が自動車なので、電子書籍最大の用途と考えられる通勤時のひまつぶしという用途には使えないのだ。キンドルもまっさきに買って、ひととおり業界仲間に自慢したあとはさわってもいない。いわば、自称電子書籍評論家としてiPadぐらいもってなきゃという責任感というか義務感での購入だった。それにiPadはスレートPCとしてもエポックメーキングな製品として歴史に残ると思う。何年かすればいわゆるコレクターズアイテムとなるとも考えての事でもある。

 ところがどうして、iPadというやつ、まったく期待しないで買ったということもあるが、結構実用的なのだ。まずは東京出張に携帯してみた。最近の新幹線N700系では無線LANが使えるから、ノートパソコンがわりに使えるかというわけである。結論。使える。ノートパソコンより軽いのがありがたい。パソコンメイルはあたりまえだが読める。メイルは携帯電話でも読めるがiPadの広い画面は携帯電話よりはるかに快適。キーボードがないので入力はタッチパネルになるが、これも思ったより使える。もちろん短文に限ってのことだ。部下からのメイルに「了解」のひとことを書くぐらいなら必要にして充分。

 さてその次は、お待ちかねの電子書籍としての用途だ。車内から「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」を購入。このベストセラーをまだ未読だったのだ。表紙がいわゆるオタクの萌え絵で、中年男性が書店で買うのがなんとなく気恥ずかしかった。書店員の目などまったく気にせずどんな本でも買えるのは電子書籍の隠れたメリットかもしれない。

 さっそく読み始める。普通に読める。iPadは電子ペーパーではなく液晶なので目が疲れると脅かされ続けていたがまったくそんなことはない。それより、字を大きく表示できるので老眼の目にはむしろ楽。老眼鏡をかけて本を読むのは意外に目に負担なので、字を大きくして老眼鏡なしで読むのはむしろ疲れない。電子書籍もあとはコンテンツ流通の問題さえ解決つけばすぐ実用になるのを今更ながら実感。。

 さて、次は、家にかえって寝転んで電子書籍を読んでみる。私の読書スタイルはほとんどこの寝転がり読みだ。この時はさすがにiPadも重く感じる。さらに感じたのは「堅い」ということだ。本は紙だから、やわらかく曲げたりまるめたり自由にできる。慣れの問題かもしれないが、堅い本(物理的に)というのは違和感があって疲れる。寝転んで読むという用途でコンテンツの価格が同じだったら正直な所、紙の本を選ぶことなるだろう。軽い電子書籍リーダーはすでに市場にいくらでも出回っているが、やわらかい電子書籍リーダーは少し時間がかかるかもしれない。

 そしてiPadのような液晶画面最大のメリットかもしれないと思ったのは暗がりでも灯りなしに本が読めることだ。ベッドメイトの家内に気兼ねなく枕元の電気をつけずに本が読めるのは助かる。ついでに、昔、母親に「早く寝なさい」と電気を消されたあと、布団にもぐりこんで懐中電灯で照らしながらマンガを読んだときのように、布団をひっかぶってその中で読んでみる。もちろん読めるし、暖かい。冬の夜長には意外にいい読み方かもしれない。しかもiPadを布団と枕にもたせかけておけば手で持つ必要もないから重さも堅さも気にならない。これは紙の本の模倣ではない新しい読書形態になるかもしれない。

 

画面は横長、紙面は縦長

 電子書籍にしてもオンラインジャーナルにしても好むと好まざるにかかわらず、印刷会社は対応せざるを得ないというのが現在の情勢だ。しかし、今のところ電子独特の処理が必要という場面はまだそれほど多くない。電子対応といっても、紙上のレイアウトをそのままPDFにしてクライアントに手渡すことだと理解している印刷会社は少なくない。それどころか、紙のままスキャナで取り込み画像PDFにすることが電子化だと信じて疑わない経営者すらいる。

 この場合、組み版現場としては今まで通り紙の上で読みやすさのみ考えてレイアウトするという姿勢はまったく変えなくてすむ。出力が紙か画面かだけの違いだ。いわゆる写植会社など組み版のみを行ってきた会社などではまったく仕事として変化がないことになる。いわゆる紙のかたちに対応した縦長レイアウトだけを考慮していればいい。

 だが、ここに来て画面でのみ読む読者が増えつつある。電子書籍こそこれからだが、すでに学術雑誌の世界ではオンラインジャーナルが主流となっており、もう10年も前から画面で読むことの方が普通になっている。オンラインジャーナルでは通常のWEB画面と同じく、ページという概念がない。一論文ごとに画面の下へ下へと縦にスクロールしながら読んでいく。確かに、横長のディスプレイ画面で読むときには、ページをめくるより縦にスクロールしていく方が読みやすい。反対に、縦長の紙面を前提としたPDFを横長の画面で読むと読みにくいことおびただしい。特に二段組みの本などは一度画面をスクロールしながら一段の下までいき、そしてまた二段目の上に画面を引き戻さねばならない。

 現在の電子書籍は縦長画面が主流だと言われるかもしれない。それもページごとに独立した画面があり、iPadなどではいちいち画面をタッチしてめくるような動作をしないと次の画面に移れなかったりする。これは、今の紙の本に慣れた読者を電子の世界にひきずりこむためにやむなく紙の本に似せているということもあるし、現在のコンテンツが紙を前提として作られているから、ページごとというような画面の作り方をしておいた方が、今現実にあるコンテンツを利用しやすいと言うこともあるだろう。紙の本をそのままスキャンすれば電子書籍になってしまうのだから。

 だが、いつまで紙という制約の下に成立した書籍形態が紙にせよ電子にせよ命脈をたもつだろうか。人間の目はもともと横長の世界に慣れている。コンピュータの画面がそうだし、テレビも映画もそうだ。一時期、縦長画面のワープロというようなものもあったが、普及したとは聞かない。私も使ってみたことがあるが、不自然だった。人間の目は横に二つ並んでいるのだ。視野が横に広いのは当然だろう。そもそも紙の書籍だって、見開きにすれば横長なのだ。綴じるという紙の制約上、ページというような縦長の紙面が成立したにすぎない。さらに遡れば、冊子体登場する以前にもあった巻物、特に絵巻物は極端に横長である。最終的には、情報端末は横長の画面となってくるのが自然と思えるのだ。

 しかも、紙の本と違って、電子系の書籍は読者の側で体裁を自由に選べる。電子書籍の長所としてよく字の大きさを読者が設定でき、それぞれの読者に最適なかたちで画面表示ができるというのが喧伝されるが、まさに、レイアウトの自由は読者の側にある。極論すれば読者が縦長を選ぼうが、横長を選ぼうが、画面の上で逐次、自動的に美しくレイアウトしなおして崩れないようなデザインが必要と言うことになる。こうなってくると縦長、横長とこだわること自体が無意味なのかもしれない。

 いずれにしても、印刷会社の縦に堅くなった頭を横に解きほぐさないと、これからの業界で生き抜いていくのは厳しそうだ。
 

京印季報「電子書籍時代の印刷業」

7月にやった京都府印刷工業組合の講演「電子書籍時代の印刷業」が、講演録として、京都府印刷工業組合の機関誌に掲載されました。


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ここをクリックしてもらえれば、本文PDFに飛びます。

7月は「我電子書籍の抵抗勢力たらんと欲す」が発売されたばっかりで、ちょっとハイになっており、我ながら話がやや脱線気味ではありますね。講演って、こうやって文章におこしてみると、支離滅裂しゃべっていて恥ずかしいですね。

我はいかにして電子書籍の抵抗勢力となりしか

すこし時代を遡る。私の原点は「活字が消えた日」である。私の経営する会社は4代前の先祖が幕末に京都で木版印刷の会社を創業し、明治のはじめに当時のハイテクであった活版印刷に進出して以後ほぼ百年間、「活版の中西」として全国的にも知られた存在だった。その中西が活版をやめ、電子組版に移行するというのは当時の大事件で、活版最後の日にはテレビが取材にきたりもした。

この活版から電子組版への移行経緯を、「マガジン航」でもおなじみの津野海太郎氏のすすめで本として出版した(『活字が消えた日』晶文社刊 1994)。当時、好評をもって迎えられ、版を重ねた。今でも活版から電子組版への移行時期について詳細に記した基本文献として読み継がれているようだ。

その出版のころ津野氏と語り合ったものだ。「いずれは『本が消えた日』を書かなければならないだろう」と。そのころにはまだインターネットこそ、一般的ではなかったが、パソコン通信は普及しており、パソコン通信で本を読むという形態がそれほど抵抗なくうけいれられていた。失敗は続いていたが、NEC のデジタルブックのような電子書籍もすでに商品化されていた。たぶん、それほど遠くない未来、電子書籍の時代は来る。それはもう必然のように感じられた。

しかし、当時、電子書籍事業にのりだすことはなかった。電子書籍時代は来るとしても、もうすこし先、すくなくとも電子組版設備とそれを紙に印字するための平版印刷機械の減価償却がすんだあとであろうと予測していた。それより会社は活版から電子組版にいたる過程で設備投資や職人の転職費用などで、金をつかいはたして、とても電子書籍どころではなかったのである。

だが、時代は容赦しない。21世紀のはじまりとともに。インターネットの大波はまず、学術雑誌の分野をのみこみはじめた。オンラインジャーナルである。理系の英文誌はことごとくオンライン化され、紙の雑誌が発行されなくなった。発行されたとしても部数は大幅に減っていった。だが、これはある意味、チャンスでもあると思った。私は当時イギリスのオックスフォードユニバーシティプレスと提携し、積極的なオンラインジャーナル商売にのりだした。そして、やがてやってくる電子書籍ビジネスを展開することも模索し始めた。未来は電子にこそあると思っていた。

だが、オンラインジャーナル商売は紙の印刷を代替するほどの利益をもたらさないのだ。印刷会社は紙にすることで、利益の大部分を稼いでいる。印刷には、原稿を本のかたちにととのえる組版部門と、組版された原版を印刷製本する部門がある。オンラインジャーナルは前半の組版部門こそ同じように機能するが、印刷が必要ない。後半の印刷部門の設備も人員も活かすことはできない。しかも、印刷会社ではこの後半部分が稼ぎ出す割合の方が大きいのだ。オンラインジャーナルだけで印刷も含めた売り上げを稼ぎ出すには、よほど多くのオンラインジャーナルを受注しなければならない。まずいことに、英文オンラインジャーナルの生産拠点はどんどんインドに移っている。人件費がインドの20倍もかかる日本の印刷会社に発注してくれる酔狂な出版社はない。

おそらく電子書籍でも同じことがおこる。極端な話、印刷業界は書籍が紙に印刷されなくなったとき、壊滅する。印刷部門がまったく必要なくなってしまうからだ。出版社はコンテンツビジネスとして生き残れても我々は生き残れない。幸運な数社は電子書籍コンテンツ制作会社として残るかもしれないが、ほとんどの印刷会社はなすすべがない。

これでは電子書籍に抵抗するなという方が無理だ。確かに今まで産業転換の前に消えていった業界は数多い。それは新しい技術が普及するときのやむをえない犠牲だという話も聞く。しかし、思い出してほしい。みんなおとなしく滅んでいったわけではない。農産物自由化に対する農業団体の抵抗をすさまじかったし、激烈な労働争議のはてに炭鉱事故に見舞われた末期の石炭産業も歴史に残る。電子書籍側が対応を誤れば、電子書籍化による印刷産業消滅は政治闘争となりうる。その間に日本の電子書籍は世界から一周も二周も遅れ、とりかえしがつかなくなるだろう。

そしてもうひとつ私は懸念する。やはり出版編集の問題だ。紙の本の場合、いったん印刷されて、書店に並んでしまったら、回収することはまず不可能。また印刷し出版するという決断は大量の紙の仕入れ、印刷や製本の人件費など多額の現金が必要となる。おのずと出版や再版の決断は慎重にならざるをえない。この決断をまちがえたら返本の山で倉庫はふさがれ、印刷代金の請求書だけが残る。だからこそ、出版社は、校正に万全を期し、確実に売れる部数を確実に出版するというきめこまかな編集や営業政策をとってきた。これが結果として書籍の質を高めてきたのだ。

電子書籍時代、出版するのは簡単だし、出版社は返本のリスクにおびえなくてもいい。それでも「いい本を作りたい」という情熱さえあれば、質は低下しないとおっしゃる方はいるだろう。それは、甘い認識という物。いい本も出るかもしれないが、それ以上に悪い本が大量に出回る。現に電子書籍で安易に自費出版を推奨するサイトは雨後のたけのこ状態だ。

紙の本の世界では、出版するのに金がかかった。金のない著者はまず出版社のおめがねにかなう必要があった。そうでなければ自費出版するしかなかったのだが、やはりその費用を負担できるのは限られた層だった。言論がお金をもっている側に独占されることには弊害もあったが、すくなくとも粗雑な本が出回らないフィルタリング効果はあった。ある程度の水準以上の物しか世にはでなかったはずだ。

このフィルタリングが電子書籍にはない。誰でもどんなものでも出版できる。ネット社会の電子掲示板の現状からして極端な政治的偏向をもった電子書籍が人気を集めてしまうことも予測される。ネット右翼も良識ある評論も同列に電子書籍の土俵で並べられた時、本当に市民社会の良識は機能するのだろうか。市民社会の良識など今の掲示板やツイッターを見る限り幻想に思える。ソーシャルメディアがよい物と悪い物を自然選択するというような太平楽はましてや信じられない。

だが、いくら電子書籍の弱点を述べたてたところで、電子書籍は普及するだろう。今年の国際ブックフェアで富士通のカラー電子ペーパー端末の試作品を見た。あくまで薄く、軽く、たぶんこれなら本より便利で読みやすい。寝ころがって読むとき、本と同等に読め、本より薄く軽い物があれば、私はそちらに乗り換える。

電子書籍に対して、紙の本の魅力を語る人は数多い。「その風合い、物質としての質感。本は表紙やカバーも含めた総合芸術だ」と。ところが、この同じ言葉を、私は『活字が消えた日』にも聞いた。「若旦那、あなたのところが活字をやめるなんてそんなもったいない。活字の風合い、力強い印字、長年の歴史による総合芸術をどうして捨てようとするのだ」。

だが、活字が電子組版になりやがてDTPとなって、みながその印字に慣れたとき、誰も活版のことなど思い出してくれなかった。たまに「活版で」という注文があったとしても「値段がずっと高くなる」ことを告げると、誰も発注などしてくれなかった。今、活版がなくても誰も困らない。美術工芸品としての需要がわずかにあるが、それは産業ではない。

電子書籍が「見慣れた」存在になったとき、はたして、人々は紙の本を懐かしむだろうか。もちろん美術工芸品・趣味骨董のたぐいとしてはおそらく紙の本も長い命脈をたもつだろう。だが、実用品としての価値は著しく低下する。これはもう必然のような気がする。

だったら、抵抗するなとあなたは言うかもしれない。いや、私は電子書籍にすばらしい未来があるからこそ、抵抗する。このままこの混沌のまま、敗者に一顧だにもしないまま電子書籍を推進するならば、紙の本も電子書籍ももろとも破滅する。もちろん出版文化すべても道連れにして。

2010.8.9
初出 マガジン航 

紙の桎梏と呪縛から解き放たれたとき、電子書籍という未来の地平が立ち現れてくる

鎌田様

お招きいただいてありがとうございます。http://www.ebook2forum.com/2010/03/ebook-and-printing-business-1/
印刷業こそが電子書籍の先頭にあるというお言葉、ありがたくお受け取りします。
私のブログ「電子書籍の抵抗勢力たらん」の反響の大きさに実は驚いています。あの文は出版や電子書籍関連の方々に向けたのではなく、むしろ印刷業界向けに決起を促したものなのですが、一般の反響の大きい割に印刷業関連の方からはあまり反響がありませんでした。ひとつは、印刷業界の勉強不足ということはあるでしょう。そもそも電子書籍についてあまりに知らない。ソフト業界でのクラウドコンピューティングの例をだしておられましたが、得体のしれないものには過度の恐怖感を抱くか無視するかしかありません。印刷業界の場合は恐怖のあまり足がすくんで何もいえないということはあるでしょう。

もうひとつは、やはり出版社への遠慮があると思いますね。なんといっても、印刷業界の最大のお得意様ですし、彼らのご機嫌を損ねることはできません。電子書籍にかろうじて将来の芽を見いだそうとしている出版業界様に向けて印刷業界が反乱をおこすのはなかなか難しいのです。今後出版物の部数も点数も減るのはわかりきっているけれど、まだ注文は電子書籍より紙の本の方がはるかに多いわけで、出版業界をさしおいて印刷業界から発言するわけにはいかんのです。

でも、もう印刷業界人としては出版社と心中するのはいやです。

だからまずは主張すべきは主張させてもらう。印刷したら、当然のようにその原版PDFを要求され、泣く泣く渡すと、それがなんのことわりもなく電子書籍として使われているなんていうことはやはりやって欲しくない。法律的にはどうなんでしょう。昔、活版の時は、版の上に載った内容は著者や出版社のものだが、それを支える鉛は印刷会社のものという了解がありました。だから再版の時は、仁義としても、実質的な技術的制約という意味でも、かならず同じ印刷会社に仕事をまわしてくれた。同じ理屈を敷衍すれば、印刷会社も当然版面に対して権利を主張できる余地があるはずです。そうした権利がちゃんと守られてこそ、対等なパートナーとして出版社や著者と共同歩調がとれるんじゃないですか。

そして、印刷会社は大量に複製することが仕事だと思ってちゃいけない。私は京都の印刷工業組合で委員をしていますが、京都の工業組合でもいわゆる印刷機を回している「印刷工」は少数派です。その多くはDTPオペレーターやデザイナー。かれらにとって必ずしも紙がなくたって生きていけるんです。

ただ、ご指摘のように、あまりに今まで「紙」への依存が大きかった。親父がよく言ってました「紙代は第2次大戦直後と今とではほとんど変わらないのに、その間人件費は100倍にはなっている」。印刷屋は昔、印刷機をまわすどころか、紙の相場を見て、仕入れた紙を右から左へ転がすだけで儲かったのです。紙に刷らないとどうにも儲からない。そういう構造になってます。その中で、組版やデザインは印刷のおまけという意識は強く、出版社も本を積み上げれば、金を払うことには納得してくれるが、組版だけに金をだすという習慣はなかったですね。だから、いわば組版だけに特化してしまうような電子書籍ビジネスは印刷業界はみんなおよび腰です。

でも、結局はビジネスモデルの問題でね。電子書籍ビジネスでちゃんと利益がでればいい。もちろん、われわれもPDFを作ってるだけで、お金がいただけるとも思っていない。電子書籍にふさわしい技能を身につける必要があるでしょう。それぐらいはわれわれも考えている。

電子書籍は印刷業界にとっては業界そのものを破壊しかねない極めて危険な代物です。この危険な代物を下手に出版業界に扱われて、印刷業界もろとも沈んでしまうぐらいなら、電子書籍の抵抗勢力になってやる。まあ私の真意はそんなところでしょうか。

紙の本質とかオンデマンド印刷とか、いろいろ書きたいこともありますが、先は長い。まずは私の決意表明でここはしめくくりましょう。

全国の印刷業者よ団結せよ。紙の桎梏と呪縛から解き放たれたとき、電子書籍という未来の地平が立ち現れてくる。

2010/4/3