頭の検索エンジン
3年前になくなった知人の蔵書を処分することになったと遺族が知らせてきた。欲しい本は譲るというので何冊かもらってきた。この知人は蔵書家でかつ印刷会社の経営者でもあったからか、ことの他本を大事に扱っていた。増え続ける蔵書のため自宅に3階建ての書庫を増築されたぐらいだ。その書庫はお気に入りの書斎と一体化しており、完成したときに見せてもらったが、同じく本の置き場所に困っていた私は羨ましかったものだ。
蔵書を書棚に並べることは愛書家の願いだと思う。一度読んだ本は、次に読み返すこともないのに、手元に置いておきたくなる。もちろん愛書家は必ずしも読書家ではないのは認める。私も買ってはみたもののは読んでもいない本は結構ある。ただ読むにせよ読まないにせよ本は増え続ける。
私はこの増え続ける本を並べたいがために古い本を段ボール箱に詰めて倉庫に積みあげるということをこの20年繰り返している。最近ではその段ボール箱を置く場所すらなくなって、結局は段ボール箱ごと古本屋に売り払ってしまった。印刷屋にとって情けないことに最近は古本の相場も暴落していて、二束三文だった。
しかし、意外と言えば意外なのだが、あれほど大事と思っていた本なのに、段ボール箱に詰めて保存しておいた本を売り払っても一向に困っていない自分に気がついた。読んでみようという気もおこらないし、そもそも何があったかも忘れてしまっている。
ではなぜ本を座右に置いておきたくなるのだろうか。本の内容が好きだから、その媒体である本自体も好きになるということは第一だが、本を書いたり、講演をしたりするようになると、そのための参考書がそばにないと困るからだ。そして、書棚に置いてある本の内容は「この件、書棚のあのあたりの本に書いてあったぞ」と簡単に思い出せる。人間の頭は強力な検索エンジンなのだ。
だがこの検索エンジンは書棚の本にしか威力を発揮しない。段ボール箱に詰めてしまうと働かなくなる。考えてみると段ボール箱の中の本が必要と思ったことはなかった。同じようにスライド書棚の後ろの方に行ってしまった本も段ボール箱ほどではないが微妙に忘れていく。
もちろん、段ボール箱に詰めるということ自体、その本が非重要で、今後、参考として必要なさそうだと判断しているからというのは当然にある。だが、詰めた瞬間に検索エンジンの対象から外れるのは背表紙を見なくなるからではないか。人間検索エンジンは常に書棚を眺めて、背表紙を無意識に読むことで、その記憶をリフレッシュしている。それがないと直ちに機能停止するのだ。
だから蔵書の持ち主が亡くなったとき、その蔵書は持ち主という検索エンジンを失い、単なる古本の集合と化す。知人の蔵書がまさにその状態だ。中には図書館や大学に「○○コレクション」とか「○○文庫」というかたちで永久に保存してもらえる幸福な蔵書もあるがそれはごく一部だ。
さて電子書籍。背表紙がないからあたりまえだが、背表紙検索エンジン効果はない。これは断言する。表紙の書影が並ぶというシステムはあるが、何千も書影を並べられても読み取れない。結局電子書籍で読んでも内容が思い出せなくなってくる。電子書籍推進の立場でいた私にしてこれは認めざるをえない。このことに気がついて以後、図書史や印刷史という私の専門分野に限って言えば、電子書籍では読まないようにしている。忘れてしまうからだ。忘れてしまっては資料にならない。
もちろん、電子書籍はデータベース化という手段がとりやすい。読んだ電子書籍の書誌情報と内容をデータベースで管理すれば、人間の頭というような検索エンジンより、はるかに強力な検索ができる。しかし、個人蔵書のデータベース作成なんてあまりに面倒だ。紙の本なら買ってきて積んでおいて、暇なときに読むだけで自動的に頭の中で検索エンジンが形成されるのだから、これに勝るものはないんじゃないか。