« 2019年7月 | トップページ

2020年1月に作成された記事

スマート老人の逆襲

 家電量販店にて、スマホ特別セールの兄さんに引き留められた。

「スマホはいかがですか。これからはスマホの時代です。高齢の方にも簡単に使える機種もでていますんで、是非手にとってごらんください」
 スマホも一通り普及して、これからは老人がターゲットなのだろう。私はおもむろに自分の先月変えたばかりの最新鋭アプリてんこ盛のスマホを見せる。

「もう、持ってるよ」

 というと、兄さんは明らかに動揺した様子で道を譲ってくれた。

 あのなあ、年寄りを一括りに考えてはいけない。この連載の原点「若旦那コンピュータ奮闘記」以来、もはや四半世紀。コンピュータ知識をふりまわして、老経営者を煙にまいた若手経営者も、もうベテランの「コンピュータ大旦那」になっているのだ。私たちの世代の仲間が集まれば、もう最新のスマホやスマートウォッチの自慢合戦だよ。

 それに、たぶん君たちよりコンピュータは詳しい。昔の電算写植はマウスも画面もないから、コンピュータのかなり深い知識が必要だった。君たちはもう知らないだろうが、プログラムのコーディングができないと使いこなせかった。だから初心者向け言語のBASICなんてお手の物。今でも、クライアントの複雑なデータ整理に生半可なツールではなく、EXCELのVBA(VISUAL BASIC)で書いてしまう方が楽だ。最近のコンピュータのグラフィカルなユーザーインターフェースがかえってなじみにくいぐらいだ。

 我々にとってもスマホは本当に便利でもう手帳もほとんど使わなくなった。スケジュールも全部アプリを使ってクラウドで管理している。さまざまなアプリを入れているが、適当なアプリがなければ自作する。カラオケに曲が収録されてなかった時用に好きな歌の歌詞を書いたアプリとか、最近ではお寺に行ったときのためにお経や真言を書いたアプリまで用意してある。暗いお寺の本堂で目映く光るスマホを眺めて真言を唱える。

「オン・アミリタ・テイセイ・カラ・ウン」

 しかし、上には上があるもので、先日ある会で、矍鑠としてWINDOWS10の問題点について論じる80歳を越えるという老経営者にお目にかかった。元プログラマで、印刷業界のコンピュータ化に希望を感じて起業したお方らしいが、もちろん自宅でもパソコン三昧。そして同年代の奥様もそうだという。聞けば、この奥様、元はキーパンチャーだったというではないか。日本の企業にコンピュータの普及が始まってもう50年。そのころコンピュータを覚えた世代はもう70代以上だ。

 印刷業界も電算写植導入から40年。DTPから30年。当社でも電算写植第一世代はほとんど定年退職された。この第一世代は活版の職人から転身したような人も多かったが、苦労されただけコンピュータ技術が身についておられる。こうした方々は老後の楽しみに、老人会のコンピュータ担当をされたり、ブログを運用されているともきく。

 もちろん、私の同級生でもコンピュータに疎い人は多いし、私より年下でも電子関係はからっきしという人も珍しくない。同世代でも英語に堪能な人もいれば私のようにいくらやっても話せない者もいるが、それと同じだ。どの世代でもどんな技術でも得意・不得意はある。ただ、コンピュータに関しては我々の世代と少し上の団塊の世代とは少し違う感じはする。団塊の世代は仕事にコンピュータが使えなくても生きていけたが、我々から下の世代はコンピュータを使えなければ、社会生活そのものが営めなくなっていた。

 コンピュータ時代の先頭を走ってきた世代がこれからスマート老人になる。これは強いよ。コンピュータにも明るく、社会経験も豊富。本当はコンピュータとアプリが偉いのに自分の実力のように勘違いして偉そうにする若い連中に一泡吹かせてやろうか。もちろん若者にこういう対抗心を抱くこと自体が老害ということは(一応)認識しております。

頭の検索エンジン

 3年前になくなった知人の蔵書を処分することになったと遺族が知らせてきた。欲しい本は譲るというので何冊かもらってきた。この知人は蔵書家でかつ印刷会社の経営者でもあったからか、ことの他本を大事に扱っていた。増え続ける蔵書のため自宅に3階建ての書庫を増築されたぐらいだ。その書庫はお気に入りの書斎と一体化しており、完成したときに見せてもらったが、同じく本の置き場所に困っていた私は羨ましかったものだ。

 蔵書を書棚に並べることは愛書家の願いだと思う。一度読んだ本は、次に読み返すこともないのに、手元に置いておきたくなる。もちろん愛書家は必ずしも読書家ではないのは認める。私も買ってはみたもののは読んでもいない本は結構ある。ただ読むにせよ読まないにせよ本は増え続ける。

 私はこの増え続ける本を並べたいがために古い本を段ボール箱に詰めて倉庫に積みあげるということをこの20年繰り返している。最近ではその段ボール箱を置く場所すらなくなって、結局は段ボール箱ごと古本屋に売り払ってしまった。印刷屋にとって情けないことに最近は古本の相場も暴落していて、二束三文だった。
 

 しかし、意外と言えば意外なのだが、あれほど大事と思っていた本なのに、段ボール箱に詰めて保存しておいた本を売り払っても一向に困っていない自分に気がついた。読んでみようという気もおこらないし、そもそも何があったかも忘れてしまっている。
ではなぜ本を座右に置いておきたくなるのだろうか。本の内容が好きだから、その媒体である本自体も好きになるということは第一だが、本を書いたり、講演をしたりするようになると、そのための参考書がそばにないと困るからだ。そして、書棚に置いてある本の内容は「この件、書棚のあのあたりの本に書いてあったぞ」と簡単に思い出せる。人間の頭は強力な検索エンジンなのだ。 

 だがこの検索エンジンは書棚の本にしか威力を発揮しない。段ボール箱に詰めてしまうと働かなくなる。考えてみると段ボール箱の中の本が必要と思ったことはなかった。同じようにスライド書棚の後ろの方に行ってしまった本も段ボール箱ほどではないが微妙に忘れていく。

 もちろん、段ボール箱に詰めるということ自体、その本が非重要で、今後、参考として必要なさそうだと判断しているからというのは当然にある。だが、詰めた瞬間に検索エンジンの対象から外れるのは背表紙を見なくなるからではないか。人間検索エンジンは常に書棚を眺めて、背表紙を無意識に読むことで、その記憶をリフレッシュしている。それがないと直ちに機能停止するのだ。

 だから蔵書の持ち主が亡くなったとき、その蔵書は持ち主という検索エンジンを失い、単なる古本の集合と化す。知人の蔵書がまさにその状態だ。中には図書館や大学に「○○コレクション」とか「○○文庫」というかたちで永久に保存してもらえる幸福な蔵書もあるがそれはごく一部だ。

 さて電子書籍。背表紙がないからあたりまえだが、背表紙検索エンジン効果はない。これは断言する。表紙の書影が並ぶというシステムはあるが、何千も書影を並べられても読み取れない。結局電子書籍で読んでも内容が思い出せなくなってくる。電子書籍推進の立場でいた私にしてこれは認めざるをえない。このことに気がついて以後、図書史や印刷史という私の専門分野に限って言えば、電子書籍では読まないようにしている。忘れてしまうからだ。忘れてしまっては資料にならない。

 もちろん、電子書籍はデータベース化という手段がとりやすい。読んだ電子書籍の書誌情報と内容をデータベースで管理すれば、人間の頭というような検索エンジンより、はるかに強力な検索ができる。しかし、個人蔵書のデータベース作成なんてあまりに面倒だ。紙の本なら買ってきて積んでおいて、暇なときに読むだけで自動的に頭の中で検索エンジンが形成されるのだから、これに勝るものはないんじゃないか。

 

IoT自動車

 自動車を買い換えた。今回はいろいろ悩んだが、すくなくともガソリン自動車という選択はなかった。選択肢はハイブリッドか、純粋電気自動車。ハイブリッドも魅力的ではあったが、つきあいのあるディーラーに適当なものがなく、もう思い切って純粋電気自動車リーフにすることにした。


 電気自動車といっても最新の車種ならば機能的にガソリン車と遜色ない。速度も乗り心地もまったく変わらない。ただし、欠点は航続距離と充電時間である。少しこの点は心配ではあったが、元々自動車でそれほど遠出をするわけではないし、充電時間も自宅に200Vの設備があれば、夜、寝ている間に充電できるから問題はないだろうと購入に踏み切った。

 これが大正解。驚いたことにモーターの加速がスムーズで力強い。専門的に言うと低速域でのトルクが強く、V8やV12といった多気筒大排気量のスーパーカー並の加速性能を発揮する。これが実に心地よく、ひさびさに車を運転する楽しさを味わっている。

 で、当然IoTおじさんとして興味のあるところはその電子機器としての性能である。電気自動車に限った話ではないが、最近の安全装置や自動運転機能は昔の自動車の概念をとことん変えてしまっている。

 安全装置については各種衝突防止や障害物センサーなどてんこもりの仕様にした。若旦那シリーズ以来25年。私も63歳、もう高齢ドライバーの部類であり、安全装置は必須だ。おかげで信号待ちで隣をバイクがすり抜けていくだけでセンサーがけたたましく警告してくれる。過敏な気もするが、守られている感じはする。

 自動運転はかなり進んだ。高速道路では一旦セットすると同じ速度で走り続け、前に車がいれば、そのうしろをぴったり追走する。もちろんハンドルも自動制御されハンドルから手を放してもカーブでは勝手にまがっていく。ただ最後の責任は運転者がとれということか、ハンドルから完全に手を放して、5秒すると車が警告を発して自動運転を辞めてしまう。これは機能上というより法制度上の制約だろう。

 当然ながら、ネットには常時つながっている。スマホからあらかじめエアコンのスイッチをいれたり、充電を制御したりということが可能となっている。このエアコンの遠隔操作は夏場には本当にありがたい。それだけでなく自宅のパソコンから事前のルート検索や充電器の情報などが手に入る。電費(ガソリン車の燃費にあたる)も綿密に計算したものがパソコンで見られる。これらは、メーカーのサーバーにビッグデータとして蓄積され、今後の開発に情報提供していることだろう。

 電気自動車は自動車を根本的に変えた。私たちが子供の頃、名神高速道路が開通した。当時制限速度が100キロだったことに驚いた。が、この制限速度はその後50年間変わらなかった。ようやく最近になって例外的に120キロになったが、その進歩はおそろしく緩慢だった。自動車のエンジンもボディデザインも基本的に変わらなかった。電気自動車は違う。別の側面から大進化をとげて、まったく別物の機械に生まれ変わっていた。おそらくこの先、自動運転が進化すれば、人は運転しなくてもよくなるだろう。自動車に乗ってて「どこそこへ行ってくれ」と自動車に直接語りかけると目的地に勝手に運んで行ってくれ、充電も勝手にやってくれるようになるだろう。

 この革命はしかし始まったばかりだ。印刷会社は30年早く、こうした革命的変革を経験した。自動車のボディのように、本も以前と外観は変わらないが、コンピュータによってその製造の中身はまったく変わってしまった。そして、いまインターネットと電子書籍でさらに根本から変わりつつある。その意味で、現在の電気自動車は印刷業界で言えば、まだDTPがようやくできたころのレベルだ。これから、CTPがあって、デジタル印刷があって、そして電子書籍へと展開して外面も変わる。我々は革命の先駆者として自動車業界の先輩づらしてもいいかもしれない。

 

« 2019年7月 | トップページ