« 2016年4月 | トップページ | 2016年7月 »

2016年5月に作成された記事

試験問題に使われました

 見慣れないところから郵便物が届いた。あけると某大学の学長名でこんなことが書いてあった。「このたび本学2016年度入学試験におきまして、下記著作物を使用させていただきました。

『我、電子書籍の抵抗勢力たらんと欲す』」

この本は、2010年発売。このコラムをまとめたものである。つまりはこのコラム自体が入試問題に採用されたのだった。使われたのは2007年の「活版を知らない子供たち」と2009年の「電子式年遷宮のすすめ」の2本である。こうして採用されてみると、なにか他のコラムより出来がいいような気もしてくるのが不思議なところ。印刷・出版関係の本というのは本に埋もれて暮らしている大学の文系の先生にとっては身近なので、手にとっていただいていたのだろう。それがめぐりめぐって入試問題になったということなのだ。

「活版を知らない子供たち」は、活版を知らない新入社員が増えたことを嘆き、インターネットの時代だからこそ、ずしりと重い活字が文化を支えてきたことと、我々印刷業者はその末裔であることを誇るべきだという主張である。

 そして「電子式年遷宮」の方は、結構あちこちで引用いただいている私の造語だ。電子データは大量に複製されて、容易に拡散するけれど、長期保存にはハードやOSの進化が速すぎて向かない。だから、時代時代に適したかたちにデータを移し替えておく必要がある。あたかも神社が何年かに一度、お社を全部建て替えて、神様を移っていただくように。

 試験問題は2つのコラムを読ませ、それについての設問という形式になっている。どちらか一方が問題になっているのではない。

 これが正直難しいのである。筆者みずからが自分の文章についての問題が解けないという変な状況に陥ってし
まった。特に最終問はお手上げだった。長くなるけれど引用する。

[この2つのエッセイは、どちらも傍線部a「この台詞、電算写植だDTPだと、盛んに旗をふっていた20年前の私にプレゼントしたいなあ」と、傍線部b「『だからやっぱり印刷だよ』という結論にしたいところだが、マルチメディアコンテンツをどうやって紙に保存するかという問題に降参だな」のようにややくだけた調子で終わっているが、ここに共通している著者の姿勢を最も端的に表している一文を抜き出しなさい。]

 わからん。本当にわからん。私のこのコラムは、オチをつけようと思うので、割と最後がおちゃらけた感じで終えることが多い。でもそれはどういう心理の結果なんだろうかと問われても、困惑するばかり。

 前者は活版をほめて、そして最後に、電算化の過激派だった私が、変節したことを自分で皮肉っている。後者は、電子の世界にはいろいろと面倒なことが多いから紙の方がいいという結論にしたいが、それでも、やはり電子にはかなわないと嘆いて見せる。そこまではいい、ここに共通する著者つまり私の姿勢とはなんだ。そして、それを一番よくあらわしている一文というとどれなんだ。

 聞くところによると、こういう試験問題は作者でも解けない場合が多いという。試験問題は独立した作品とも言うべきものなのだ。

 どうしてもわからないので、受験勉強をやったばかりの大学生の息子(文科系)に解かせてみた。彼いわく、こういう場合、解法の定石がある、くだけた調子というのは、仲間向け、もしくは子供向けと解釈するという。そして二つのコラムに共通するのは紙の重要性の認識だと彼は喝破した。従って、彼の解答は「活版を知らない子供たちには、活版のことを語り続けねばならない」だという。正解かどうかはまだわからないが、私の心理の奥底にはそれがあるということかあ。

 私の深層には活版が根強く居座っていることと見透かされましたか。本コラムまとめの最新刊は「電子書籍は本の夢を見るか」です。
 

男親の読み聞かせ

 「読み聞かせをすれば、子供がぐんぐん伸びる」という言葉を信じたわけではないが、男の子2人の子供が小さい頃よく本を読んでやった。男親と子供との関わりというと、外でキャッチボールというのが正しいらしいのだが、根っからのインドア派の私は子供との関わりというと部屋で模型をくみたてたり、一緒に本を読んでやったりということになるのだ。

 本当にちいさいころは定番どおり、絵本を読んでやった。1歳児用、2歳児用とこまごまといろんな絵本があった。絵本にはページをめくるたびに驚かせたり、喜ばせたりと仕掛けがあった。子供は素直で、驚くところでは驚いてくれたし、喜ぶところでは喜んでくれた。このころ子供に人気だったのは、たかくあけみの「やぎのめーどん」である。ただただ、やぎと子供が遊んでいるだけなのだが、「めーどん、めーどん、めーめーどん」というリズミカルな表現が読んでいても楽しかったし、子供も喜んでいた。夜になると、子供がこの絵本をもってきてろくに言葉も話せないのに「めーどん、めーどん」と言って読むのをせがむのである。

 もうすこし大きくなると、絵本では飽き足らないのか、図鑑が好きになった。恐竜や太古のほ乳類といった図鑑がお好みだった。ただ、名前が書いてあるだけなので、そのまま読んだのではつまらない。恐竜の名前を「ぱあ-きけふあろおさあうるすう(パキケファロサウルス)」と大げさに読んでやると、キャッキャッ喜んだ。おかげで恐竜の名前には詳しくなったし、「エレファスファルコネリ」なんていう、わたしたちの子供のころには聞いたことも見たこともない動物の名前を知ることになった。ちょうど恐竜にも羽毛があったというのが判明し、一気に恐竜の復元図がかわったころだった。それにいちいちこちらが感心していたら、子供に伝染したのか。ある日、よそのおかあさんにかたっぱしから「ねえねえ知ってる。恐竜にも羽があったんだよ」と語りかけているのには少し恥ずかしかった。子供は正直で、こちらの感心がそのまま子供の心にもダイレクトに伝わるのだ。

 恐竜の名前を連呼するだけでは、情操上問題があるのではないかと妻が言うので、寝る前に童話を読んでやるというのもやった。ただ、字ばかりの本には子供はあまり興味をしめさない。「よい子の童話集」に挿し絵も載っているが、いかにも上品で、恐竜の絵に慣れている子供たちは喜ばない。そこで、インドア派の必殺技が登場だ。若いときから、能や狂言、歌舞伎を見続けているし、演劇も経験あるので、抑揚と感情を思いっきりこめて読む。これは結構うけたのだが、面白いだろうとあまりやりすぎると、子供はむしろしらけてしまうということもわかった。ほどほどが大事なのだ。

 童話の読み聞かせというと、思い出すことがある。あれは確か寝床でオスカーワイルドの「幸福な王子」を読んでやっていたときだ。もちろん、このお話は派手な話ではないし、最後は悲しい。あまり感情をこめないで淡々と読んでいた。子供たちは、おとなしく聞いていたかな。そして、最後にかかるころだった。泣いていたのだ。いや、子供ではなく、一緒に寝ていた妻が。隣で週刊誌をみながら、実は「幸福な王子」を一緒に聞いていたのだ。子供たちは泣くところまではいかなかったけれど、静かになっていた。たぶん、幼な心に感動していたのだろう。私は、子供たちをぎゅっと抱いてやった。家族みんなで、感動を共有できる。これが読み聞かせの本当の意味なんだなあと思った。

 その後、子供たちがぐんぐん伸びたかどうかは、もう少ししないとわからない。でも、2人ともすごく積極的で、クリエイティブな大人になるつつあることだけは確かだと思う。いいですね。読み聞かせ。


160501medon

『やぎのめーどん』たかくあけみ 福音館書店 ISBN978-4-8340-8073-5

« 2016年4月 | トップページ | 2016年7月 »