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2012年5月に作成された記事

紙の復権

 今年の全印工連印刷メディア協議会のテーマは「紙の復権」だった。このテーマだからか、来場者が多かった。すくなくとも私の所属している京都工組からの参加は例年の倍にはなっている。やはり印刷会社は「紙の復権」をなんといっても待ち望んでいるのだ。業態変革も今の時代、確かに正しいのだが、紙を扱って印刷機をまわすことを生業にしてきたほとんどの印刷業者にとって、コアの印刷ビジネスから業態変革することは至難の業だ。

 今回の「紙の復権」に関する講演をヒントに私なりに復権の方法を考えた。ひとつは、紙に対するあらぬ誤解の払拭だ。この誤解がいかにひどいかはISO14001などの環境規格をとろうとしたらすぐわかる。まず環境コンサルタントと称する人が開口一番、印刷屋に向かって「紙を減らしましょう」なのだから。紙を使うことは森林を破壊し、大量の廃棄物を産み出す悪の産業だと言わんばかりなのだ。はたしてわれわれは必要悪としてやむなく紙の本を作っているのだろうか。これはない。

 紙だけが悪者でないのは実際の統計を見て欲しい。つけっぱなしのサーバーの方がよほど電気を食う。森林が破壊されるというのも誤解である。実際に伐採された木のうちパルプになるのは10%程度だし、紙はリサイクル比率が非常に高い。また製紙会社は積極的な植林活動を通じて森の育成も行ってきている。

 次に紙の魅力の再発見である。紙は五感をフルに刺激する媒体でもある。電子書籍は視覚と一部音声だけが頼りだが、紙は「紙の手触り」「インキの匂い」など視覚聴覚以外の要素に訴えることが可能だ。真新しい教科書の「インキの匂い」は幾多の文学作品で新学期の清新なイメージとして語り継がれているではないか。「味」はいまのところ提供できていないが、紙に味の要素を加え、舐めて楽しむ本というのもこれからの技術だとできなくはない。五感を使わせる広告媒体として、紙はまだまだ可能性がある。

 そして今「紙の復権」になくてならないのはデジタルとの共同である。いくら、紙の利点を述べたとしてもインターネットの検索性や速報性に紙は逆立ちしたって適わない。もはやデジタルの時代が紙の時代へと逆戻りすることはない。デジタルはまだこれから発展を続けていくことだろうし、情報伝達の多くの部分をインターネットネットや電子書籍などのデジタル機器が担っていくことになるのはこれはもう否定することはできない。ただ、デジタルにはデジタルの良さがあるように、紙には紙の良さがある。先にも述べたように五感をフルに行かせる媒体としての紙はインターネットには真似できまい。ネットと紙を場合に応じて使い分けるというのは今までもよく言われてきた。しかし両者を使い分けるのではなく共同すればさらに発展が望めるのではないか。AR技術などはそのひとつとして注目されているが、そんな大げさなことを考えなくても、地道に上製本を作り込み、インターネットで売りさばき、SNSで営業活動を行うということだっていいと思う。

 紙の本とデジタル媒体の最大の差は影響する時間の長さだ。ツイッターはつぶやいて1時間、フェイスブックは1日、ブログでも1週間たてば、もう反響はほとんどなくなる。ところが、本は1ヶ月目からが勝負、1年、2年と反響が続き、グーテンベルグらのインキュナブラが実証しているように500年間影響を持ち続ける。反面デジタルの伝播力は紙に比べ猛烈に速い。紙は追いつけない。

 伝播速度と情報の持続、この特性に応じてデジタルと紙を組み合わせることに新たなビジネスチャンスがありそうだ。そここそが「紙の復権」のスイートスポット。どうやってデジタルと紙を組み合わせるのかを問うことこそ、これからの印刷人の勝負どころだ。

 「紙の復権」、それは青い鳥のようにはるか遠いところでなく、すぐ近くにいるのかもしれない。

4年目のパソコン

 私が、この原稿を書いているのはデスクトップパソコンである。私はキーボードは106/109フルキーでないと受け付けないし、周辺機器もいっぱいぶらさげるから、どうしてもデスクトップということにならざるをえないのだ。実は、今使っているのは9代目である。一番最初は就職してまもなく買ったNEC PC8801でもう30年前のことだ。パソコンの歴史もかくも長くなった。

 さて30年で9代目だから、ほぼ3年に一度買い換えていることになる。1980年代は私自身、若くて金もなかったし、パソコンの進化もそれほど早くなかったから、周辺機器を買い足しながらでも5年ぐらいは使えた。これが1990年代以後は、ハード・ソフトとも爆発的に進化して、3年もたたずに陳腐化して買い換えざるをえなくなるということを繰り返すことになる。ハードとしては使えても、ソフトがバージョンアップするたびに、猛烈にCPUパワーやメモリを要求して買い換えざるをえなくなるのだ。さまざまなツールや周辺機器を買い足すことで、対応することも可能だったが、パソコンの価格破壊が猛烈に進むようになって、周辺機器やメモリで場当たり的に対処するより買い換える方が安くなった。

 そして買い換えて後悔したことはなかった。パソコンは3年の間に桁違いに進化していて、便利に速くなっていたのだ。パソコン雑誌風に言うと「サクサク動く」のである。古いパソコンを苦心惨憺、ソフトが重い、たちあがりが遅いと愚痴をこぼしながら使うより、買い換えた方がよほど精神衛生上もよいということになる。

 さて、今使っているパソコンだが、気がつくと買って3年を超えていた。これは最近ではなかったことだ。つまり3年たっても不満を感じないということになる。こんなことはそれこそ30年ぶりかもしれない。もちろん。この間にソフトもバージョンアップしているし、新しいパソコンはさらに猛烈な速度、大メモリ容量を誇っている。今やハードディスクはTB(テラバイト)が最低単位だ。

 それでもそんな超高速、大容量が必要ないのである。たとえば、デジカメ画像でも、最新機種では2000万画素とか3000万画素とか謳っているが、ポスターに引き延ばすのでもない限り、そんなものすごい画素数は必要ない。従って、容量もそんなに要らない。ワープロも本1冊1ファイルに収めても支障なく動くし、表計算なんて数万行などという非現実的な表を作ってもまったく問題ない。動作の重いソフトの代表だったDTPも、特にストレスを感じなくなって久しい。結局、3年前のパソコンで充分役に立つのである。

 それより、こちらが年をとったせいもあるが新しいパソコンを買って、ソフトの設定や周辺機器のセッティングを一からやり直す方がおっくうに感じられる。デスクトップ画面に散らばった折々の必要に応じてインストールしてきたソフトを全部をもう一度インストールし直すことを考えると気が遠くなりそうだ。

 もうパソコンはある意味で行くところまでいった感がある。もちろん、発展の余地がないとは言わない。まだまだ速く大容量になるだろう。しかしそうなっても使いようがない。自動車は何十年も前に時速100キロを出せるようになったし、今なら200キロ、300キロ出る車を作ることは造作もない。だが、道路事情が追いついてこない。従って、自動車は基本的に進化せず、GPSのような周辺機器や乗り心地のような付帯性能で引き比べるしかなくなった。それと同じように、パソコンももはや普通の人間が普通に使う限り、必要のない性能の域にまで達してしまったのではないか。

 パソコンはこれから、性能をあげるより、値段が安くなり、薄くなり、軽くなる方向に向かう。現実にタブレットPCとはその方向性の延長にあらわれてきているものだと私は考えている。4年目のパソコンは最後の旧世代パソコンということなのかもしれない。 

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