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2011年1月に作成された記事

若旦那の電子書籍2年

  表題の若旦那は私のことではない。すでに私は「元」・若旦那であって、現役の若旦那ではない。もっと下の世代のことだ。私は電算とともに業界におりたったようなふりをしているが、活版の末期を知っているし、入社したころの印刷組版の主流は手動写植だった。今の若旦那達は違う。入社したときから印刷組版といえば電算写植でありDTPだった。WEBは彼らにとってはニューメディアではなく、すでに巷にあふれかえる既存メディアだったわけだ。

 そして、今の若旦那世代はバブル以後の印刷業界不況の中で家業を継いだ。厳しい経営環境の中で苦労してもいる。とはいってもそこは若旦那たち。新しいビジネスには目を輝かす。オンデマンド印刷の研究会にしても、WEBプリントの研究会にしても当然ながら出席者は若く情熱にあふれている。

 だから昨年の2010年電子書籍元年には、彼らも電子書籍ビジネスに加わった。「印刷雑誌」にのったある印刷会社の広告にこんなのがあった。

「電子書籍はじめました」という短冊がどんぶりの上で揺れている。ちっょとマンガチックな広告だった。夏のころの号だったから、町の中華料理屋によくある「冷やし中華はじめました」をもじっているのは一目でわかる。聞けば、社長が若旦那世代の会社だという。経営を楽しんでいるなと思った。そこにはどんな時代になっても楽しみながら新しい時代に適応していく若旦那本来の姿があった。

 今、若旦那たちの会社が電子書籍で走り出している。業界の集まりに行けば、「昔は印刷業界も儲かったのに今は全然だなあ」と愚痴るばかりの大旦那達がはびこっていて辟易するのだが、若旦那世代の会合では、iPadやiPhoneの自慢話を挨拶代わりにして、XMLやEPUBなどの専門用語が飛び交っている。特に電子書籍フォーマットについての関心が高いようだ。残念ながら電子書籍にはまだ注文といえるような注文がこないのが実情だが、2010年を電子書籍元年というなら、2011年は電子書籍2年。去年は期待と脅威ばかりが過度に肥大していたが、今年は現実にどのように対応していくかが問われる年になる。若旦那は電子書籍2年に向けて着々と準備を整えつつあるように見える。

 もちろん私「元若旦那」だって負けてはいない。「我電子書籍の抵抗勢力たらんと欲す」の出版で電子書籍の抵抗勢力を自他共に認める私だが、商売としては別。電子書籍が本当に時代に必要とされているならば、商売としてしっかりこの時代に対応していかねばならない。商売人はいい意味で、変節漢だ。「信念」にはこだわらない。「信念を貫く」と言えば聞こえはいいが、これは時代への対応力を自ら放棄した言葉でもある。経営者はもって時代の変化に対応して変わって行かねばならない。

 ただ、誰もが気がついているように電子書籍は印刷業界にとって諸刃の刃。電子書籍化が進めば進むほど、従来の紙の印刷は減る。紙の印刷の売り上げ減った分以上の電子書籍の需要を掘り起こすのは相当な覚悟が必要だ。しかし、もう後戻りはできない。紙の印刷の需要がこれ以上増えるとは考えにくいからだ。だから、なんらかの新しい食い扶持を考え出さねばならない。電子書籍はそのための第一候補だ。

 若旦那達はがんばっている。彼らがこの業界に来た以上、彼ら自身の手で未来を切り開いてもらわねばならない。この変化の激しい時代、親のやってきたことをそのままやっているだけで、会社を続けていけるはずがない。それは印刷業界に限った話ではない、親の世代の商売を墨守して続いたきた業界などどこにもないのだ。伝統産業と呼ばれる業界でも、時代にあわせて製品や企業形態を変えている。変えなかったところはやはり市場から退かざるをえない。ましてや印刷業界は伝統産業でもなんでもない、単なる製造業なのだ。電子書籍2年。若旦那達、何をやりだすだろうか。
 

「本は、これから」を読む

 池澤夏樹編「本は、これから」(岩波新書 ISBN978-4-00-431280-2)を読む。これは手練れの読書家や本の関係者36人からの電子書籍時代を迎えてのまさに「これからの本」についての寄稿をまとめたものである。
 
 電子書籍については、手放しの賛成というものはすくなく、どちらかといえば懐疑的な論調があふれている。書き手の選び方にもよるのだろう。しかし中には本に対するフェティッシュな思いが出過ぎていてトンデモになっている論まであっておもしろい。残りページ数の(厚み)をみることで本の全体を鳥瞰できる(内田樹) とか、本のもつ紙のマージン(余白)が大事だという指摘(桂川潤)である。前者はアナログの残ページ表示グラフでもつければいいことだし、後者は電子書籍だって設定次第でいくらでもマージンなど取ることができる。

 要はこうしたフェティッシュな紙の本の優越性を語る言葉には紙の本の本質を見誤っている上に、決定的に電子書籍の技術に対する誤解がある。電子書籍はまだできたばかり、これからいくらでも本に近づけようとすれば近づけられるし、まったく独自の進化を遂げる可能性もある。それを抜きに、赤子に等しいKindleとiPadだけ見て、優劣を論じるというのは建設的ではない。

 おそらく、みなさん本が好きだし、それぞれ好きなテクストの読書体験に豊穣な思いをお持ちなのだろう。それと、テクストが紙の上にのっていたということに無理にこじつけているのではないだろうか。好きなものはそれをとりまくすべてが好き。やがて、とりまくものそのものか好きになるという奴だと思う。テクストが好き、それを載せていた紙の本が好き、紙の本自体が好きという論理だ。

 確かに、現在、ちまたに流通しているテキストが紙の本とそれが成立したときに主流だった活版という印刷技術とわかちがたく結びついているのは事実だと思う。紙の本という形態があるからこそのテクストというのは充分考えられる。それぞれ、行立てやページ構成を考えて作られた本というのはいくらでもある。しかし、それは紙という枠があってこその制約であって、今、電子本の時代にあって、そうした制約がなくなれば新たな表現形式がうまれることこそ自然ではないか。

 逆に、印刷術が成立する以前の源氏物語やギリシャ哲学などを読むには電子本は適しているかもしれない。電子本の画面スクロールという形式はコーデックス(冊子体)よりボリューム(巻物に近い)。絵巻物などは、冊子体だと断片を切ってみせるしかないが、それは絵巻物の筆者の意図することではないだろう。むしろ、横長のワイドディスプレイで横にスクロールしながら読んだ方が本来の絵巻物の読み方に近い。

 本書で多くの人が指摘しているように私も本は残ると思う。しかし、それは上野千鶴子が指摘するように「伝統工芸品」としてだ。テクスト(上野はコンテンツと呼ぶ)の流通こそが大事であって、それを載せる媒体がなんであろうと本来どうでもいい話だ。今、大騒ぎして電子書籍を云々しているのは産業としての出版者や書店、そして印刷業者をいかに守るかという話なのである。私も自戒をこめて言うならば、それぞれの利害関係を抜きにして純粋にテクストの未来を語ることはできなくなっている。これは、本に対するフェティッシュな思いを持つ人も自分のフェティッシュな思いという利害関係から逃れられないのと同じ事だ。本を守るのかテクストを守るのかといわれれば、私は業者としては本を読書人としてはテクストを守ると言わざるをえない。

 最後に私は紀田順一郎のこの文章にもっとも共感できた。当たり前の結論で恐縮だが、電子書籍が内向きの権益保護に堕すのではなく積極的にメリットを見いだすということなのだ。

「いま、電子書籍の時代を迎え、出版業界は一様に不安をかかえている。著作者も明確な結論を出せる段階にないと言えるが、一つ確実なことは、現在の紙の本の水準をそのまま電子書籍に移行しただけでは単なる電子的複製というにとどまり、一件多様に見える議論も内向きの権益保護のためでしか亡く、新しい書物文化創造にはつながるまいということだ。(中略)
電子化を奇貨として、日本の書籍を何らかの程度に国際商品へと衣替えしようという出版人や著作者は現れないものか」

 蛇足だが、今、本書のISBNを引き写していて、岩波書店のISBN出版者コードが00なのに気がついた。ISBN978-4-「00」-431280-2である。出版者の元祖というべき出版者が本の未来を論じる姿勢はやはり真摯だ。

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