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2010年11月に作成された記事

三代の文学全集

「親父、夏目漱石の『こころ』ないか」

 ぶっきらぼうに息子がたずねてきた。パソコンオタクをもって自称する息子が文学を読もうというのは決まってあれだ。

「読書感想文か」

「あたり」

 もちろんパソコンオタクの息子のこと、わざわざ本を借りにこなくても、画面で読んですませることは当然できたはずだ。小学生のころ、やはり読書感想文の必要に迫られ、青空文庫の「走れメロス」を画面で読み通していたし、日常的にプログやチャットに親しんでいるから画面で文章を読む方がむしろ慣れている世代のはずだ。しかし、彼は本の方を選んだ。小説を読むには、本でなくてはならないらしい。もっとも、本の方が読みやすいとかそういう機能的な問題ではないようだ。ちいさいころから我が家には日本文学全集があり、小説を読むとは、そうした上製の本で読むものだと自然に思っているからだ。一回や二回の画面読書経験ではその習慣は簡単にはかわらない。「走れメロス」は彼にとっても、まだまだ例外の世界だったのだ。

 この日本文学全集、私が小学生の頃、母が毎月の配本を楽しみにしていた中央公論社版である。まず、母が読み、そして私も中学生になった頃から、この全集で日本文学に親しんだ。最初に読んだのは「我が輩は猫である」だった。あまりのおもしろさに、ゲラゲラ笑いながら読み、その後、中学から高校にかけて何度も読みかえした。高校生になって、他の作家のものも読み出した。谷崎潤一郎の「細雪」にはあまりの優美さに引き込まれて、世の中にはこんな美しい世界もあるのかと耽溺した。そして三島由紀夫。「金閣寺」の理知的で論理的な文章に惹かれた。

 これが原因とは言わないが、私は大学の進学先として文学部を選んだ。でも逆に、大学の学問として、文学を研究対象として分析しながら読むという方法論にはなじめず、私は文学の世界から離れてしまった。それから、コンピュータに出会い、パソコンの誕生に熱中し、電算写植やオンラインジャーナルに取り組み、やがて決算書の内容に一喜一憂する人生がはじまった。

 その間も、文学全集は母の願いもあったし、私の思い入れもあって、本棚の一番いい場所に鎮座し続けてきた。中身を読むことはあまりなかったけれど、夏目漱石・芥川龍之介・谷崎潤一郎・太宰治・大江健三郎といった名前のはいった背表紙を見るのが好きだった。そして私の子ども達も大きくなるにつれ、本棚に並ぶこういった名前に歴史的な意味があることを次第にわかっていくようになったのだ。

 そして、今、読書感想文を契機に彼らは文学全集に手をのばしはじめた。SFやライトノベルだけでなく純文学もおもしろいんだぞと、そっと背中を押してやる。これからどうなるかな。さすがにこの全集では古くさいかな。最終巻(当時もっとも若い作家の巻)が石原慎太郎だものなあ。こどもたちが文学部に進むことはすくなくともなさそうだが、文学と本の楽しさを知る大人にはなって欲しいと思う。

 この文学全集、読むのは三代目ということになる。紙の本の楽しみはこういうところにもあった。もちろん感傷にはすぎないけれど、同じ本が、それぞれの時代にあわせてそれぞれの立場で読み継がれていく。本という物体の刻む歴史というものは電子書籍では決して代替されない。あるいは、もうそんところにしか本の価値がないということなのかもしれない。

 「我が輩は猫である」の載った夏目漱石の巻をひさしぶりに取り出してみた。さすがに、母が読み、私も何度も読んだし、子どもにも貸したから、あちこちにしみがつき、表紙もとれかかっていた。でも、我が家にとっては宝物。四代目がこの全集で「我が輩は猫である」を読む日が待ち遠しい。

初出 「印刷雑誌」2010年11月号

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