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我はいかにして電子書籍の抵抗勢力となりしか

すこし時代を遡る。私の原点は「活字が消えた日」である。私の経営する会社は4代前の先祖が幕末に京都で木版印刷の会社を創業し、明治のはじめに当時のハイテクであった活版印刷に進出して以後ほぼ百年間、「活版の中西」として全国的にも知られた存在だった。その中西が活版をやめ、電子組版に移行するというのは当時の大事件で、活版最後の日にはテレビが取材にきたりもした。

この活版から電子組版への移行経緯を、「マガジン航」でもおなじみの津野海太郎氏のすすめで本として出版した(『活字が消えた日』晶文社刊 1994)。当時、好評をもって迎えられ、版を重ねた。今でも活版から電子組版への移行時期について詳細に記した基本文献として読み継がれているようだ。

その出版のころ津野氏と語り合ったものだ。「いずれは『本が消えた日』を書かなければならないだろう」と。そのころにはまだインターネットこそ、一般的ではなかったが、パソコン通信は普及しており、パソコン通信で本を読むという形態がそれほど抵抗なくうけいれられていた。失敗は続いていたが、NEC のデジタルブックのような電子書籍もすでに商品化されていた。たぶん、それほど遠くない未来、電子書籍の時代は来る。それはもう必然のように感じられた。

しかし、当時、電子書籍事業にのりだすことはなかった。電子書籍時代は来るとしても、もうすこし先、すくなくとも電子組版設備とそれを紙に印字するための平版印刷機械の減価償却がすんだあとであろうと予測していた。それより会社は活版から電子組版にいたる過程で設備投資や職人の転職費用などで、金をつかいはたして、とても電子書籍どころではなかったのである。

だが、時代は容赦しない。21世紀のはじまりとともに。インターネットの大波はまず、学術雑誌の分野をのみこみはじめた。オンラインジャーナルである。理系の英文誌はことごとくオンライン化され、紙の雑誌が発行されなくなった。発行されたとしても部数は大幅に減っていった。だが、これはある意味、チャンスでもあると思った。私は当時イギリスのオックスフォードユニバーシティプレスと提携し、積極的なオンラインジャーナル商売にのりだした。そして、やがてやってくる電子書籍ビジネスを展開することも模索し始めた。未来は電子にこそあると思っていた。

だが、オンラインジャーナル商売は紙の印刷を代替するほどの利益をもたらさないのだ。印刷会社は紙にすることで、利益の大部分を稼いでいる。印刷には、原稿を本のかたちにととのえる組版部門と、組版された原版を印刷製本する部門がある。オンラインジャーナルは前半の組版部門こそ同じように機能するが、印刷が必要ない。後半の印刷部門の設備も人員も活かすことはできない。しかも、印刷会社ではこの後半部分が稼ぎ出す割合の方が大きいのだ。オンラインジャーナルだけで印刷も含めた売り上げを稼ぎ出すには、よほど多くのオンラインジャーナルを受注しなければならない。まずいことに、英文オンラインジャーナルの生産拠点はどんどんインドに移っている。人件費がインドの20倍もかかる日本の印刷会社に発注してくれる酔狂な出版社はない。

おそらく電子書籍でも同じことがおこる。極端な話、印刷業界は書籍が紙に印刷されなくなったとき、壊滅する。印刷部門がまったく必要なくなってしまうからだ。出版社はコンテンツビジネスとして生き残れても我々は生き残れない。幸運な数社は電子書籍コンテンツ制作会社として残るかもしれないが、ほとんどの印刷会社はなすすべがない。

これでは電子書籍に抵抗するなという方が無理だ。確かに今まで産業転換の前に消えていった業界は数多い。それは新しい技術が普及するときのやむをえない犠牲だという話も聞く。しかし、思い出してほしい。みんなおとなしく滅んでいったわけではない。農産物自由化に対する農業団体の抵抗をすさまじかったし、激烈な労働争議のはてに炭鉱事故に見舞われた末期の石炭産業も歴史に残る。電子書籍側が対応を誤れば、電子書籍化による印刷産業消滅は政治闘争となりうる。その間に日本の電子書籍は世界から一周も二周も遅れ、とりかえしがつかなくなるだろう。

そしてもうひとつ私は懸念する。やはり出版編集の問題だ。紙の本の場合、いったん印刷されて、書店に並んでしまったら、回収することはまず不可能。また印刷し出版するという決断は大量の紙の仕入れ、印刷や製本の人件費など多額の現金が必要となる。おのずと出版や再版の決断は慎重にならざるをえない。この決断をまちがえたら返本の山で倉庫はふさがれ、印刷代金の請求書だけが残る。だからこそ、出版社は、校正に万全を期し、確実に売れる部数を確実に出版するというきめこまかな編集や営業政策をとってきた。これが結果として書籍の質を高めてきたのだ。

電子書籍時代、出版するのは簡単だし、出版社は返本のリスクにおびえなくてもいい。それでも「いい本を作りたい」という情熱さえあれば、質は低下しないとおっしゃる方はいるだろう。それは、甘い認識という物。いい本も出るかもしれないが、それ以上に悪い本が大量に出回る。現に電子書籍で安易に自費出版を推奨するサイトは雨後のたけのこ状態だ。

紙の本の世界では、出版するのに金がかかった。金のない著者はまず出版社のおめがねにかなう必要があった。そうでなければ自費出版するしかなかったのだが、やはりその費用を負担できるのは限られた層だった。言論がお金をもっている側に独占されることには弊害もあったが、すくなくとも粗雑な本が出回らないフィルタリング効果はあった。ある程度の水準以上の物しか世にはでなかったはずだ。

このフィルタリングが電子書籍にはない。誰でもどんなものでも出版できる。ネット社会の電子掲示板の現状からして極端な政治的偏向をもった電子書籍が人気を集めてしまうことも予測される。ネット右翼も良識ある評論も同列に電子書籍の土俵で並べられた時、本当に市民社会の良識は機能するのだろうか。市民社会の良識など今の掲示板やツイッターを見る限り幻想に思える。ソーシャルメディアがよい物と悪い物を自然選択するというような太平楽はましてや信じられない。

だが、いくら電子書籍の弱点を述べたてたところで、電子書籍は普及するだろう。今年の国際ブックフェアで富士通のカラー電子ペーパー端末の試作品を見た。あくまで薄く、軽く、たぶんこれなら本より便利で読みやすい。寝ころがって読むとき、本と同等に読め、本より薄く軽い物があれば、私はそちらに乗り換える。

電子書籍に対して、紙の本の魅力を語る人は数多い。「その風合い、物質としての質感。本は表紙やカバーも含めた総合芸術だ」と。ところが、この同じ言葉を、私は『活字が消えた日』にも聞いた。「若旦那、あなたのところが活字をやめるなんてそんなもったいない。活字の風合い、力強い印字、長年の歴史による総合芸術をどうして捨てようとするのだ」。

だが、活字が電子組版になりやがてDTPとなって、みながその印字に慣れたとき、誰も活版のことなど思い出してくれなかった。たまに「活版で」という注文があったとしても「値段がずっと高くなる」ことを告げると、誰も発注などしてくれなかった。今、活版がなくても誰も困らない。美術工芸品としての需要がわずかにあるが、それは産業ではない。

電子書籍が「見慣れた」存在になったとき、はたして、人々は紙の本を懐かしむだろうか。もちろん美術工芸品・趣味骨董のたぐいとしてはおそらく紙の本も長い命脈をたもつだろう。だが、実用品としての価値は著しく低下する。これはもう必然のような気がする。

だったら、抵抗するなとあなたは言うかもしれない。いや、私は電子書籍にすばらしい未来があるからこそ、抵抗する。このままこの混沌のまま、敗者に一顧だにもしないまま電子書籍を推進するならば、紙の本も電子書籍ももろとも破滅する。もちろん出版文化すべても道連れにして。

2010.8.9
初出 マガジン航 

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