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2010年5月に作成された記事

電子式年遷宮のすすめ

電子書籍の話題がかまびすしい。しかし、ひとつ忘れてやしませんか。保存の問題だ。本は図書館においておけば、未来に伝えられる。国立国会図書館には、明治以来めんめんと文書が保存され、また未来にひきつがけている。はて電子書籍はどうだ。
の「日本における電子書籍の流通・利用・保存に関する調査研究」の委員を仰せつかっておりました。先日その

 調べていくと、電子書籍の保存は紙以上に難物だということがわかった。まず、媒体CD-ROMとかDVD-ROMをもつパッケージ系電子書籍では物理媒体が長年の保存に耐え得ないという問題がある。プラスチック盤が20-30年で劣化して読めなくなるというのだ。それ以前にこのドッグイヤーの電子業界のこと、劣化限界の30年もたつ以前にハードもソフトもまったく違ったものになってしまって、物はあっても読めなくなってしまう。実際、国立国会図書館で2003 年度に実施されたパッケージ系電子出版物の利用可能性調査では、1990 年度以前に受け入れた電子資料のうち、2003 年度当時でも利用可能なものは3%にすぎなかったというショッキングな結果がでている。

 最近増えているパピレスのようなインターネットサーバーから供給されるタイプのネットワーク系電子書籍はさらにやっかいな問題を抱えている。それはサーバーの滅失が全データの消滅を意味するという点だ。紙の書籍やパッケージ系電子書籍の場合、出版社が火事で焼けようが、台風で倒壊しようが、いったん発売され読者や図書館に渡ってしまった書籍はそのまま残る。これがネットワーク系の場合、大元のサーバーがなくなればすべてのデータが読めなくなる。物理的に滅失しなくても、出版社が倒産したり、倒産しないまでも、事業廃止の事態でもなればただちにコンテンツは読めなくなる。電子書籍端末「シグマブック」や「リブリエ(LIBRIe)」に対するコンテンツ提供が中止されたことは、記憶に新しい。まだこれら電子書籍端末サイトの場合、対応する紙の本があったからそれほど問題にならなかったが、今後ケータイ小説のようにデジタルで生まれデジタルで消費される書籍が増えてくれば大問題だ。

 それにネットワーク系でもソフトやハードの進化への対応という問題もパッケージ系と同じく残る。インターネットもいつまでも今と同じインターネットであるとも限らないし、今は隆盛をほこるケータイ機器もこれから先どう変化するか誰にもわからない。

 そこで、私が提唱したいのが、電子式年遷宮である。電子式・年遷宮ではない。電子・式年遷宮である。神社が何年かに一度本殿をまったくあたらしく作りかえる行事が式年遷宮だ。伊勢神宮などは20年に一度という式年遷宮を持統天皇の時代以来1200年間も忠実に受け継いでいる。これにならって、電子データもまずは図書館(国立国会図書館がいいだろう)に集めて保存し、媒体が劣化したりソフトが陳腐化する20年ごとぐらいにあらたな媒体へ移し替え、同時に新しいソフトへの対応も行うというのが電子式年遷宮である。1000年後にまで電子書籍を残すことを考えたとき、こうした制度は必須だ。

 そんなややこしいことを考えなくても、プリントアウトして紙で保存すればすむことじゃないかと思ったあなた、確かに紙の本というのはそれ自体がレコーダーでありプレーヤーであるという希有な特質を備えた優れた媒体だ。要は「本を読むのには本だけあればいい」ってことだ。紙は少々劣化はするが、ちゃんと保存すれば数百年たっても読める。ましてやOSの変化なんていうものもありえない。

 だから「やっぱり印刷だよ」というオチにしたいところだが、マルチメディアコンテンツ(なつかしい!)をどうやって、紙に保存するかという問題に降参だな。

オンデマンド印刷技術が電子書籍時代の印刷のあり方

 オンデマンドへの期待は大きいようですね。あまり指摘する人がすくないのですが、オンデマンドの技術はデジタル技術そのもので、デジタルでのアーカイビングと表裏です。いわばプリンタなのですから、100%デジタルでできていなければならない。いまのところはアーカイビングというと、紙の本をスキャンしたものを思い出しがちですが、早晩、すべての本はボーンデジタルになります。こうなるとオフセットで作るより、オンデマンド作るメリットがはるかに大きい。今、学術雑誌の世界では、オンラインジャーナルが主で印刷本は従という時代が来ています。まだ紙の雑誌も出ていますが、いつ紙がなくなっても学術雑誌は成立できます。まずはXMLでオンラインジャーナル用のデータを作り、それを自働組み版で印刷版に焼き直すという作り方にをするようになりつつあるからです。ここで、基本的に、オンラインででているものをわざわざ紙の本でも読もうという人は少ない。ただしゼロにはならない。ここにオンデマンドの成立する余地があるのです。

 将来的にはすべての書籍データはまずXML(もしくはそれに相当する物)で作られ、必要に応じて、電子書籍にしたり、オンデマンドにしたりという方法がとられると思います。だけれど、紙でのオンデマンド出力は画面表示のできの悪い代替品であってはならない。今は画面表示の品質が劣るから、別途プリントアウトするとか紙の本が必要という人は多いのですが、画面品質は急速にあがるでしょう。読みにくいから紙が必要と言うことにはならない。質の高い画面があっても、わざわざ紙で印刷しようというからには、オンライン以上の付加価値、組み版も印字品質、そして装丁も最高品質の物でなくてはならない。

 印刷のXML化。そしてそれを紙で印刷するときには、最高の組み版技術・オンデマンド印刷技術・製本技術を提供する。だとすると、印刷業界も培ってきた技術を活かしつつ、ゆるやかに、電子書籍の時代へと移行していけます。オンデマンドがバッファになって、本の世界は電子化していく。本があれば書店もしばらくは食べていける。
 デジタル時代は「たおやめ」の文化。誰かが、誰かを完膚無きまでたたきのめすのではない、それぞれがすこしつづゆずりあいながら、ひとつの理想に向かって、知恵と力をだしあう。先頭を走る英雄を賞賛するのではなく、ステークホルダーみんなが、ひとつの理想に向かう。それこそが、これから時代のあり方ではないのでしょうか。
 

電子書籍時代、出版社は必要なのか?

鎌田氏との対論

 京都人へのご評価ありがとうございます。おっしやるとおり、京都人は、数の力で圧倒したり、論理でねじふせたりすることは好みません。京都は平安貴族の昔から、すべてを受け入れていく「たおやめ」の文化です。ところが、今の文化は良きにつけ悪しきにつけ武士道的な「ますらお」文化です。猛々しく、勇ましく、そして己が信念を貫くことを清しとする文化です。電子書籍でも勝つか負けるか、勝てば電子書籍の利益がすべてが手に入り、負ければ失業するのみ、という「ますらお」の原理で語られています。

 平治物語絵詞をみてください。堂々と行進する武士、それを怖々遠巻きに眺める公家衆。これが、今から1000年前、武士が台頭して平安公家の「たおやめ」文化が「ますらお」文化にとってかわられた瞬間でした。
 
Heiji


 なぜ、日本では欧米のように出版社がDTPをおこなったり、コンテンツの製作をおこなってこなかったのか。アメリカの電子書籍ビジネスモデルでは、そのことが前提だという鎌田さんの指摘はあたっています。日本の出版社がDTPの担い手でなかったことが、日本の電子書籍コンテンツの充実が遅れたことの、原因のひとつであるのは確かだと思います。

 日本では決定的に出版社にITリテラシーが欠けています。新興の出版社では自社でDTPをすることで伸びたところもありますが、古くからある出版社はITに強い人が極端に少ないか、主流を歩いていない。むしろ忌避する人の方が多い。コンピュータというと、人間の尊厳を冒す怪物のように思って、古臭いコンピュータ支配ディストビア論を展開する人すらいます。

 パーソナルコンビュータは中央集権コンピュータではありません。それはむしろ、市民が生み出し、市民運動が育てた市民のための装置です。DTPは高価な活字印刷を使わなくても本格的な印刷物を手にいれたいという市民の切実な願いから生まれた。だからこそ、アメリカの出版社はパーソナルコンビュータを違和感なくとりいれていったのです。もちろん、タイプライター文化の伝統は大きかった。パソコン初期アメリカの出版社でタイプライターを打てない人はまずいなかったでしょう。この文化的伝統にディスプレイがつけくわわったとしても、それほど差を意識することはなかった。コンピュータだからと構えることなく、ワープロをそしてDTPを使い込んでいった。

 たいして、日本では、手書きの原稿を印刷屋にいれて、活字になってから赤字をいれるという出版社の悪しき伝統がありました。そうしないと手書き原稿では推敲すらできないのです。日本には英語圏のように気軽に使えるタイプライターなどありませんから、ゲラが出てからでないと文章の全体像が掴めない。ゲラになってから文章に手をいれるという体制はワープロ時代になってもほとんどかわっていませんでした。私事で恐縮ですが、十数年前のわたしの処女作「活字が消えた日」は全文、パソコンのエディタで書き、出来しだい電子メイルで送信していました。当時としては先端のIT製作だったわけです。ところが、このデータを元に印刷会社で版下が組みあがったあと、編集者が文章訂正をびっしり赤字でいれていくのです。それはそれはすさまじいものでした。私は印刷会社の経営をしていましたから、あの赤字のはいったゲラを修正するオペレーターのことを思うと胸が痛んだものです。

 この体制は結局、出版社の編集局と印刷会社の役割を峻別していきました。編集局の仕事は企画を考え、原稿をとりたて校正を行い、印刷会社はただ、ただ言われる通りに作成するのみ。だから、出版社がDTPを担うというかたちにならなかった。

 もちろん、技術的には欧米に比べて日本語組版の困難さということもあると思いますよ。すこし考えても、欧米組み版のアルファベット26文字、左横書きだけに比べ、漢字6000字、縦横書き混在とでは日本語組版はあまりに複雑です。今、印刷業界では、文書のXMLデータ化は重要な仕事ですが、欧米製のDTDでは、日本語を表記しようとするとたちまち行き詰まります。かなり広汎な拡張が必要でしょう。この日本語組版の特殊性から、出版社が組み版に深入りできず、印刷会社の役割を分ける原因のひとつになっていきました。

 結論として、電子書籍にあたっても、出版社があの複雑な日本語組版を行うということは考えにくい。
 ここにあたって、この対論最初の問題にもどりますが、「出版社は必要なのか」という問いを発せざるをえません。著者と電子書籍のベンダー、そして技術者としての印刷会社があればそれですむのかということです。結論から言えば、当面、出版社の役割は大きいと思います。いわゆる「編集」の機能です。著者の仲介も含めてしばらくはこの役割は出版社に残ると思います。しかし、電子書籍の流通が本格的になってくれば、出版社を実際に支えている「営業」や「製作」といった部門は必要がなくなるか、今とはまるでちがうものになる可能性がある。そうしたとき「編集」も今までと同じ役割がはたせるかどうか。今の丁寧な「編集」は紙の本による流通という前提のもとになりたっているもので、これがなくなれば「編集」は維持できない。

 当面、出版社の編集機能+印刷会社というあり方でないと電子書籍化は覚束ないのは確かですが、果たして、その次の段階になると、「編集」そのものも生き残れない可能性がある。ではどうなるか。これは予測がつかないのですが、日本の電子書籍製作モデルは欧米のものとはかなり違ったものになることだけははっきりしてきます。出版社が電子書籍製作の担い手となる欧米型と違い、出版社は製作を担わず、「編集」のみを行い、それを下請けさせるかたちで、電子出版の作成を印刷会社が担うというかたちです。そしてこれからスタートするにしても、それが欧米型の出版社中心に移行するのではなく、「編集」機能が低下すればするほど、また「編集」が疲弊すればするほど、印刷会社中心へと移行していく。この場合の主導権はどこが握るか。出版社がEpubやXMLに習熟して、印刷会社を廃業に追い込むか、印刷会社が編集機能をもって出版社を壊滅させるか。はたまた著者が自分でやるか・・・・

 ではなく、そうした主導権をどこが握るかというのはそもそも「ますらお」的な発想です。私は電子書籍が本格化すれば、印刷と出版編集それに著者が対等な立場で協力し合いコンテンツをつくりだすという時代が来るのではないかと思います。電子書籍の「たおやめ」化です。いや、来させなくてはならない。そのためにも印刷業界はもちろんですが、出版業界にも電子書籍に対して、いまだ時は満たず、隠忍自重をお願いしたいですね。

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