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2010年3月に作成された記事

本が好きですか

 企業を経営したり企業に勤めたりする人は、通常、その扱っている商品を好きなものだ。自動車会社に勤める人は自動車が好きでたまらないから、数ある会社の中から自動車会社を選ぶ。昔、中学を卒業して印刷会社に就職する子供は、鉄工所に勤めようか、寿司職人になろうか、大工になろうかといくつもの選択肢の中から印刷会社を選んだ。それは本が好きだったからだ。「本が好き」。これは印刷に携わる者には共通の思いだろう。

 私も、もちろん本が好きだ。私の家には図書室とは言わないが、本箱を並べた本を収めるためだけの部屋がある。この部屋で背表紙を見せて並んでいる本を眺めるのが好きだ。時には手に取ることもあるが、内容は二の次。とにかく本に囲まれているのが好きだ。

 実は本好きにも二種類ある。本の内容が好きな人と、本の形態そのものが好きな人だ。おおむね、愛書家といわれる人はこの二つをあわせもっているわけだが、印刷会社に勤めていると、内容より本の形態そのものにこだわってくる。紙の質、造本体裁、そして組み版。内容より本という形態に惚れこんでいくわけだ。出版社の人も内容にもこだわるが、本という形態そのものが好きという人が多い。我々は良い本を作りたい。それは本そのものが好きだからというのは多分にある。

 しかしインターネットの時代、本は本の形態をしていない。電子書籍は画面の中に本の内容をうつしだすが、本の形はない。組体裁だってブラウザの調整ひとつで大きい字に出したり色を換えたり自分好みに変えられる。PDFはかろうじて組体裁までは保持できるが、逆に言うとそこまででしかない。ここにきて出版社や印刷会社に勤めている人間は自己矛盾に陥ってしまう。本の形態が好きで本を作る印刷会社につとめたのに本が本ではなくなってしまうのだ。内容はいつのまにか「コンテンツ」と名前を変えて(英語にかわったただけともいえるが)、本とは別の商売となっている。

 経営学の教科書に必ず載っている有名な話がある。アメリカの鉄道会社の凋落である。アメリカの鉄道会社が凋落したのは飛行機や自動車の発達が原因ではないという。鉄道会社は元々交通の主役であり、鉄道に限らずあらゆる移動に関するノウハウをもっていた。そして所有資産も街の一等地にある駅など優良な物ばかりだった。つまり、鉄道「会社」を発展させるつもりならあらゆる可能性があったのだ。しかし、鉄道会社の経営者も社員も「会社」よりもまず鉄道と機関車が好きだった。そして鉄道と機関車を存続させることに資源と情熱を浪費した。鉄道「会社」ではなく「鉄道」会社であろうとしたのだ。会社を存続させるためには環境に応じて業態は変わらなければならない。売っているものが好きであっても、それが社会から必要とされなければ、新たな方向を考えていくのが経営だという教訓なのだ。

 印刷会社の経営者は「本」の形態が好きであっても、会社を存続させるということからすると、それにこだわってはいけないということになる。印刷会社からコンテンツビジネスへの変化という時代を考えれば業態は変えるべきなのだ。

 そうとも、それは正しい。正しいのだが、私は蒸気機関車と殉じたアメリカの鉄道会社が愛おしい。本とともに会社を沈没などさせてはいけないことはわかっているし、未来の電子書籍の可能性を疑ったことがない。それでも私は本が好きなのだ。この感情だけはどうしようもない。

2006.12 印刷雑誌所載 改稿 10/03/28

我、電子書籍への抵抗勢力たらん

 われわれ印刷会社にとって電子書籍は脅威以外のなにものでもない。紙に印刷しないのだから、電子書籍製作に当たって、印刷会社はまったくかやの外だ。もちろん電子書籍ベンダーや電子書籍システムのソフトウエア構築といった仕事を印刷会社の仕事としてしまうことは可能だ。可能だが、そんなことができる印刷会社がいったい全国に何社あるというのだろうか。このままでは印刷業界、すくなくとも出版印刷の業界は壊滅である。

 このまま座して死を待つぐらいなら、抵抗勢力になってやろうではないか。本は印刷会社が作った。グーグルがスキャンして溜め込んだ書籍コンテンツの大元も結局その版面は印刷会社が作ったものだ。著作権の関係から版面については印刷会社はなにも言えないなどと、あきらめる必要はない。ありとあらゆる法律を駆使して徹底的に言うべきは主張しよう。主張して訴訟している間は、電子書籍陣営も法律論議に手間をとられて電子書籍化の速度がおちるはずだ。

 そして読者にうったえかけよう。「紙の本の魅力」をもっと声高に宣伝しよう。本には表紙もカバーも腰巻きも見返しも扉もある。そうした全体が本なのであって決して本文だけではない。そして本は読むのにデバイスが必要ない。本は本という媒体がそのままプレーヤーでもある。電池も電気もいらない。読者に紙の本の魅力を再認識してもらえれば、電子書籍の売り上げは落ちる。売り上げが落ちれば高い金を出版社に払ってまで、配信しようとはしない。結果として電子書籍の人気はいつまでたっても高まらないはずだ。

 もちろん、こうした抵抗も蟷螂の斧なのは百も承知。長期的に紙の本が電子書籍に対抗するのは難しいだろう。しかしちょっとでもその普及を遅らせれば、その間に印刷業界のビジネスモデルを転換させることができる。

 我、抵抗勢力たらんと欲す。だいたい印刷業界はなめられている。電子書籍をビジネスとして成立させようとするなら、印刷業界に仁義をとおしてもらいたものだ。

10/03/27

秘密の入り江

 子どもの頃、毎年海水浴に行った。もちろん、整備された海水浴場で遊泳するのが常だったけれど、私たちの家族にはもうひとつ秘密の入り江があった。

 父がきまぐれに運転していて発見したところだ。秘密の入り江は漁村から海水浴場にいく整備された道ではなく、夏草の茂る砂利道をしばらく行ったところにあった。朽ちかけた木造の民家のとぎれたところに金網で閉ざされた一画がある。もちろん、塩風の吹く海岸のこと金網は錆びてところどころが破れ、侵入者を廃除するという目的をはたしていなかった。特に立ち入り禁止という看板もなく、父はその金網のそばに車をとめる。

 金網をくぐってしばらく夏草をかきわけていくと、そこには三日月形の浜がある。200メートルか300メートル、海にむけて見事に湾曲し、白い砂が海と夏草を分けている。父はこの浜辺にビーチパラソルを刺し、母はその下にゴザを敷いて、即席の海水浴場のできあがりだ。

 太陽が水面に反射してキラキラ輝き、山からはさわやかな風が吹いていた。私と妹は水着に着替えると、海にはいった。足底にひんやりとした水の感覚。そして泳いだ。私たち家族以外には誰もいなかった。ただ、そこが海水浴場でない理由は金網に囲まれているからだけではない。すぐに深くなるからだ。波打ち際から2・3歩行くだけで、海は急に深くなる。泳げない幼児にとっては、危険すぎる海だった。しかし、もう小学校の高学年になっていた私や妹には深さは関係なかった。入り江の奥は波もほとんどなく、泳ぐには最適だった。

 水中めがねをもちだして海にもぐると、豊かに海藻が生い茂り、そして海藻のすみから魚が顔をだした。群れをなして泳ぐ小魚もいれば、底の方ではヒトの気配を感じたコチのたぐいがとつぜん砂の中からとびだしてくる。父と母もくわわって、海藻をとったり、魚をおいかけたり、こころゆくまで楽しんだ。

 夕闇が入り江に影をおとすころ、名残おしく、われわれはその入り江に別れをつげた。それはそれは幸せな夏休みの一日だった。

 何年かの幸せな夏休みをすごしたあと、秘密の入り江の金網がとつぜん新しくなった。そして「立ち入り禁止」の看板と鉄条網までいかめしく新調された。家族は、それを無視してまで進入する気はなく、秘密の入り江からは突然しめだされてしまった。しかしそのころには私はもう大きくなっていたし、それほど未練はなかった。ただただ幸せな夏休みの思い出として、心の底にしまっておいた。

 大学生になって、自分で自動車が運転できるようになり、思い出してその入り江の場所に行ってみた。恋人と一緒だったかもしれない。入り江はみあたらなかった。近くの漁村はすぐに見つけられた。でもなぜか雰囲気が違った。規模は小さいのに街になっていた。白いコンクリート造りの魚協や妙に明るいスーパーマーケットが目立つ街になっていた。記憶をたよりに元の漁村を進むと突然巨大な煙突が目に入った。

 秘密の入り江は火力発電所になっていた。確かに間違いがなかった。そばの朽ちかけた木造の民家には見覚えがあった。あいかわらず干物を干していた。魚と遊んだ海岸は埋め立てられて、コンクリートの護岸にタンカーが横付けされて、海には油が浮かんでいた。すこし悲しかった。火力発電所に用はなく、私はそのまま自動車をユーターンさせた。

 結婚して、子どもが生まれた。父がそうしたように私も子どもを海水浴場につれていく年齢になった。海水浴場に子どもをつれていくと、宣伝パンフレットがあった。火力発電所が一般に公開されて、小さな水族館まであるという。あの秘密の入り江あとにたった火力発電所のことだとすぐにわかった。

 その火力発電所をたずねると、職員は親切だった。火力発電所の設備は立派で、そこが、あの秘密の入り江だったとはとても思えない。でも私は入り江の山の形には見覚えがあった。そこは確かに秘密の入り江のある場所だったのだ。火力発電所の大きな設備や作業用車にはしゃぐ私の子どもを横に、私は遠い秘密の入り江の思い出に浸った。

 水族館は整備されていた。清潔なアクリルガラスの向こうには、私が子どもの時に秘密の入り江でお目にかかった魚たちが泳いでいた。でも手をのばしても届かない。確かに子ども向けのタッチングプールもあった。こどもたちはよろこんで、魚のぬるぬるとして感触を楽しんでいた。でもそこはあくまでコンクリートに囲まれた浅い、作られた空間。あの秘密の入り江の砂浜と、目の前の魚たちとはぜんぜん違う。でも、これも時代かもしれない。安全で清潔なこのプールを素直に喜ぼうと思った。

 それは幸せな夏の寓話・・いや この話、これで終わりではない。実はこの火力発電所、電力需要の低下とかで、操業停止になってしまったのだ。そして火力発電所の設備だけはそのまま残った。秘密の入り江は二度と戻らないけれど。

ツイッター考 4 ツイットはどれくらいの時間読まれるのか

ツイッターでフォローが増えてくると、タイムラインには大量のツイートが流れてくる。これではとても追いきれないので、HootSuiteなどのクライアントソフトを使って、話題毎にみやすく整理する。それでも勝間さんのように大量につぶやく人がいると、タイムライン上のツイートはあっというまに過去に押し流されてしまう。

これでわかるのは、ツイートで読めているのは、ごく最近のものだけということだ。もちろん、思い入れのあるお友達なんかはコラムを分けて追っているだろうが、そうでなくてとりあえずなんか見られればよいというようなツイートは最近のものしか読まれていないと考えるべきだ。

ここでちょっと実験。

実は、この前の「フォロワーの増やし方」というブログはかなりみなさん関心のあるテーマだと思う。おそらくツイッターでもかなり反響があるはずだ。下の図をみていただきたい。プログへのアクセスを時系列に統計をとったものだ。(ココログの機能からの転載)

Blogstatcs


まず、このプログ記事「フォロワーの増やし方」は朝の8時50分ぐらいにだして、ツイッターで載せたことをつぶやいた。すると9時台のアクセスが急に伸びている事がわかる。ところが、10時台はあっというまに減り、11時台は2件しかない。私のプログはなにもないときでも一時間に1件や2件のアクセスはあるので、これは件のツイットの影響力がほとんどなくなった、つまり読まれていないことを意味する。

そこで、次に12時40分頃、同じツイートを発信。やはりあっというまにアクセスがあるが、14時台と15時台にはすくなくなっている。おそらくこの時間帯はツイッターを見ている人そのものが少ないことはある。

さて、今度はツイッターのゴールデンタイムである8時頃にもう一度投入してみると、また一気にアクセスが伸びている。しかしこれも1時間後にはあっというまに減少している。

結論。ツイッターはだいたい発信後1時間ぐらいしか読まれていない。それを前提にして、書くべきだ。掲示板の時のように一度書いて、翌朝か1日後になにか反応があったかなんて見にいってもあまり意味がない。がんばって、見ず知らずの人に反論をリプライしても、その人がその1時間以内にツイッターにアクセスしなければ見られていない可能性が高い。掲示板やブログとは全然違う文化と情報消費だ。

10/03/15

ツイッター考 3 フォローリミット  (原文の翻訳)

フォロワーを増やすために、フォローを続けていると、突然、ツイッターからフォローリミットについて英語でこわいメッセージが届きます。私もついにこれにあたってしまいました。あとに続く方のために翻訳してみました。抄訳です。

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Twitter has imposed reasonable limits to help prevent system strain and limit abuse.・・・・・

ツイッターはある理由からリミットに達しました。これはシステムを負荷から守り、悪用を制限するためです。もしあなたがこの技術的なリミットに遭遇したら、ブラウザの中にエラーメッセージとしてこれが表示されるでしょう。

技術的フォローリミット

我々は、あなたをフォローする人の数に対しては全く制限をもうけていません。しかし、あなたがフォローできるアカウントには制限を設けています。

すべてのアカウントは2000のユーザーをフォローすることができます。一度あなたが、2000ユーザーをフォローしてしまったら、それ以上にフォローできるユーザーの数には制限があります。このリミットの数はそれぞれのアカウントごとに違い、フォローされる数とフォローする数の比率にもとづいでいます。この比率がどれぐらいであるかについては公開していません。フォローリミットはツイッターによって引き上げられることはありません。すべての人はこのリミットにはしたがってもらいます。

このアカウントベースのリミットに加えて、すべてのツイッターユーザーは技術的に1日に1000以上を超えてフォローすることはできません。これはスパムアカウントからの悪用を防ぐための技術的な制限にすぎません。またアカウントは他人を攻撃的にフォローすることは禁止されています。

「リミットに達してしまったら、私はどうすればいいの?」

あなたが、アカウントベースの2000ユーザーというフォローリミットに達してしまったら、より多くのフォロワーがえられるまで待つ必要があります。フォローリミツトはシステムすべてに適用されており、サポートではこれを無効にしたり、調整したりすることはできません。

もしあなたが、もう少しのアカウントをフォローしたいということならば、今あなたがフォローしているいくつかのアカウントのフォローを解除することでできます。しかし、覚えておいて欲しいのはこうした日常的な大量のフォローとフォロー解除の繰り返しはツイッタールールの侵害であり、アカウント停止になることもありえます。

「なぜ、ツイッターはフォローリミットなんか設けているの、私をスパマーだとでも思っているの?」

フォローリミットに達したことは、あなたがスパマーなどと規定しているものではありません。これらの制限はツイッターシステムの能力と信頼性を改善し、誰にとってもツイッターがすばらしい場所でありつづけるためです。フォローリミットについてのもっと深い議論は別のページにゆずります。

10/03/13

ツイッター考 2 フォロワーの増やし方

 そして、クライアントソフトを使うと、もっとフォロワーが欲しくなってくる。私がクライアントソフトを使い出した頃のフォロワーはせいぜい50人。最初はどうして私に見ず知らずの人からフォローがあるのかがよくわからなかった。どうやら発言内容で拾ってくるらしい。たとえば行政書士試験関連のことをつぶやけば、行政書士関連のフォローが増える。単語で検索がかかっているのだ。結局、ちゃんとした内容のあることをつぶやけば自然にフォローも増えると考え。ツイートを地道に続ける。

 これでも確かにフォロワーが増えるのだが、その歩みは遅い。一日に2人か3人。密な会話は続けられるが、フォロワー何万人とかいう人を見ると、どうやればそんなことができるのかと思ってしまう。しかも有名人ならまだしも、たいして内容のないツイッターにも何千人というフォロワーを集めている人がいる。だいたい自己顕示欲の強い私としては、フォロワーが増えてくれないとがんばって発言している意味がない。

模索しているときに、出会ったあるツイート。「要はフォローをふやせばいいんですよ」とのこと。確かに私もフォローの通知がはいれば、かならずフォローを返している。それを応用するわけだ。とにかく気になる人にはかたっぱしから、フォローしてみる。しかし、いちいちフォローの相手のホームを表示させてフォローのボタンを押すのも手間だ。

 こんなとき究極のテクニックをまたツイッターで知る。誰か気にいったか、興味の近い人をみつけて、その人のフォローのリストを表示させる。そのフォローリストにのっている人をかたっぱしからクリックしていけば、一度に大量にフォローすることが可能というものだ。これはと思って、やってみる。あっというまに100人ぐらいのフォローが完了。

 翌朝大変なことになる。メイルクライアントに大量の「○○がフォローをはじめました」というメイルがはいりだし、あっというまにフォロワーが増える。

 どうもこんなことは基本中の基本のテクニックのようではある。フォロワーが増えると、ツイッターの世界が変わる。反応が早い。基本的に読んでいる人が多いから当然だろう。ちょっと書き込むと、すぐにリツイートやリプライがくる。こうしたやりとりがチャットみたいで楽しい。従って、どんどん書き込むようになるという好循環におちいる。ただし、ツイッターのシステムに一日のフォロー数の限界があるみたいで、100人ぐらいフォローすると、そこでフォローができなくなる。気長に毎日続けてやることが大切。

 そして、フォロワーが500を超えると、こちらがフォローしないのにフォローしてくれる人が増えてくる。メッセージがリツイートされたりして、どんどん知らない人にも流れ、それが、興味あるツイートだと、フォローしてくれるということだろうか。

 いいツイートをしていれば自然にフォロワーが集まるというのは、ある程度フォロワーが集まって以後の話のようだ。それまでは少々、邪道かもしれないけれど、フォロー返しのテクニックでフォローを増やすしかない。ただ、フォローする時に、ある程度、自分と興味が共通な人というのは最低限大事だろう。やみくもにやると「おはよー、今日の朝ごはんはハムエッグ」なんていうツイートが大量に入ってきて消耗する。

10/03/13

ツイッター考 1 クライアントソフト

 ツイッターを本格的にはじめて2週間。本格的にというのは、ツイッタークライアントソフトを使ってということだ。それまではツイッターの基本機能でだけ使っていたが、これで追えるのはせいぜい10人くらい。それも勝間和代さんのように毎日何十ツイートも繰りだす人がいるとただちに行き詰まる。お友達の連絡ツールに使うという使い方もあるらしいが、積極的に情報をえたり、発信したりというときにはクライアントソフトは必須。

 クライアントソフトを使って便利なのは、自分の発言がリツイートされたり、リプライがあったりした時に簡単に知らせてくれることだ。これがないと自分への発言を見逃す。よく、リプライ送ってもまったく反応がない人がいるが、おそらくクライアントソフトを使っていない。だからタイムラインの下に自分へのリプライが沈みこんでしまうともはや発見できないのだろう。それともうひとつは、リスト毎にタイムラインを並列でならべてくれること。これでいくつかの話題を並行してみられるので、情報の整理がしやすい。友達からの「おはよー」と新聞社からの「ニュース」が同じタイムラインに流れたらやはり見にくい。

 クライアントソフトはいくつか試したが、結局Hootsuiteに落ち着いた。本ブログでも紹介しているので、ごらんのこと。Hootsuiteはブラウザから使えるので、私のように家と会社とモバイルで使うパソコンが違う人間には便利だ。どこへいっても同じ設定で使える。

01/03/13

試験でエリートを決めるのは消極的に選択せざるをえまい

 教育というと、選別か平等か、丸暗記か論理思考力かとかまびすしい。経営者を長くやってきてわかることは、本当に人の能力は学歴にはあまり関係ないということだ。要は本人の地頭の良さや、要領の良さというやつ次第なのだ。私企業では本当に実力がなければ高学歴でもエリート扱いしないが、気の毒なことにお役所では、試験で優秀な人間が若くして上にたっている。これが無能な場合、部下は悲惨だろう。

 本来、試験の目的は本当の仕事の実行力のある地頭のよい人間を発掘するための制度だったはずだ。試験で地頭のよいやつを発見できれば、早い時期から、指導者の立場につけたり、学者の道を歩ませるというのは社会の効率的な発展にとって絶対必要なことだと思う。

 問題は、試験というやつはテクニック次第である程度伸びてしまうということだ。これでは地頭の悪い人間も、必死の受験勉強で試験に受かれば、エリートの称号を受けることになる。ところがこれは機能しない。繰り返すが、試験の秀才がかならずしも事務能力に秀でていたり交渉能力に優れているわけではない。これでは試験に通っただけの無能な人間が社会のトップにつくことになり、社会の損失どころか害悪にすらなっている。だからといって、試験ではなく仕事の能力だけで人を選抜しようとすると長い年月がかかってしまう。地頭の良さを発揮して結果を出すまでには10年20年という月日がかかることが普通だ。そして実力を発揮してから、エリート教育を施したところで、指導者として力量が発揮できるまでにはさらに時間がかかってしまい無駄だ。

 本当は試験に頼らず、地頭の良いやつを発見できる手法があればいい。それがAO入試だったり、一発芸入試だったりする。ところがこれすら受験産業が食い物にしてしまう。あっというまに試験対策を考え出す。受験秀才の愚がかたちをかえて登場してくるだけだ。 結論として、暗記の能力ではない真の力を発揮できる試験ということになるが、これがなかなかない。

 問題を思考力を問うというようなものにするという例は見られるけれど、またこれも受験産業の標的になってしまう。傾向と対策が分析されてそうした試験もまた暗記物に堕してしまう。論文試験だって、試験に受かりやすい答案の書き方もすでに傾向と対策の中に埋没している。それに思考力系の試験の難点は、問題によって偶然の作用が大きく働くことだ。たまたま試験時間内に、解答をおもいつければいいけれど、試験の場で思考力が別の方向に向くことだってある。時間に制限のある試練では、じっくり考えさせることもできない。この場合、本人の能力とは別に合否が決まってしまい、実際の能力判定とは異なってしまう。

 結局、試行錯誤の結果、暗記物一発勝負がもっとも公平で能率的と言うことになる。弊害がいわれながら続いているのは他の選抜方法よりまだ「まし」ということだ。暗記ができる人間は努力ができて、かつ地頭も良い確率が高いということに納得せざるをえないのだ。かくて日本の試験地獄は延々と続くことになる。もっとも、家柄が良いというだけでエリートになったり、党への忠誠がエリートへの道だったりする国よりは数段ましということだろう。
 
10/03/06 

日本経済復活一番かんたんな方法

Katsma


勝間和代 宮崎哲弥 飯田泰之 の鼎談「日本経済復活一番かんたんな方法」(光文社新書 ISBN978-4-334-03547-1)を読む。

カタルシス。最近こんな痛快な本にお目にかかったことがない。表題の答えは明快にインフレにすることと書いてあるのだ。この件、わたしもずっと言い続けてきたことで、大賛成。デフレは金持ち(もっている金の価値があがる)や公務員(給料を下げられない)を利するだけで、一般大衆にとって何の得にもならない。一見、物が安くなるのは歓迎すべき様にも見えるが、実は給料がそれ以上に下がる。このままでは、有為ある若者の未来を閉ざすという論考はその通り。

もひとつ、最近の香山リカ的な「デフレ化でも豊かに暮らす」とか「経済発展がそれほどいいことなのか」的な論議もばっさり切り捨てている。経済は、どんどん技術革新で生産性があがる。あがった分、消費もあがらないと、その分失業者が増えるだけという指摘は目からうろこです。

ついでに言うなら私はハイパーインフレ待望論者です。借金多いからね。

10/03/01

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