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2007年2月に作成された記事

オープンアクセスの経済効果

 オープンアクセスとは要するに、「只で雑誌を見させろ」ということだ。インターネット時代になって、情報は只で手にはいることが多くなった。Wikipediaなんて、あれだけの情報が只で提供されているわけだし、新聞社のサイトもその多くが只だ。インターネットの情報は只で手にはいるという意識をうえつけてしまったのは、根本的にビジネスとして失敗という向きもある。これらは結局、広告モデルで、事業として成立している。民間放送と同じだ。民放は情報を只でてにいれられるかわりに広告を見せられる。

 しかし、広告とともに忘れてはならないのが、インターネットの発信コストの圧倒的な安さである。一昔前、印刷物しか、文字情報の発信手段がなかったころは、情報の発信には多大な費用が必要だった。紙を対象の人数分手に入れ、組み版を行い、巨大なカメラでの製版、そして安くない印刷機を動かし、できあがってからも、袋に詰めて、発送し、世界一高いという日本の郵送代を支払わなければならない。それがネットでは文字を発信するだけなら、それこそ只である。無料のサイトなどいくらでもある。お金がかかっているのは、サイトをちょっと見やすくすることと、情報の取捨選択、つまり編集作業である。学術雑誌にはピアレビューの過程を含めてもいいかもしれない。レビュー自身は学者間のボランティアであるにせよ、送られてきた論文を整理し、レビュアーに発送し、結果をまとめるのは誰かがどこかで人件費を使わないとできない。

 とどのつまり学術雑誌に関しては発信費用が圧倒的に安くなったが、ゼロではない。とすると、オープンアクセスを真に機能させようとすると、どこかで誰かがお金を負担しなければならない。ここにいたって選択されるのは、ひとつは著者負担モデルである。今までは本は読む方が金を払っていたが、今度は書く方から金を徴収しようというわけである。

「金さえだせば掲載するのか」「お金持ちの国の学者しか論文がだせなくなる」という批判はあるにせよ、このモデルは動き出している。有名なのがアメリカのPLoSである。しかし、PLoSも実態は苦しいらしく、昨年(2006)には大幅な投稿料の値上げを行って、物議を醸した。1件2500ドルである。懐の豊かではない学者には厳しい。まして途上国の著者にとっては天文学的な数字だろう。編集をまじめにやればやるほど人件費がかさむが、かといってここを省略するとプレプリントサーバーとかわらなくなってしまう。

 ここで期待されているのは、公的機関からの助成金だ。日本でも制度としてある雑誌の発行助成ももちろんだが、個々の研究者や研究プロジェクトに対して研究公開促進助成を行うというものである。これで途上国からの投稿には助成をつけて、投稿費を安くすると言うようなことも可能となる。発表する側個々への助成というわけだ。

 さて、ここで政府資金の流れの話となる。雑誌の購読費の暴騰による図書館の危機はよくいわれることで、これに対して、図書館サイドが強く主張してきたのが、オープンアクセスである。オープンアクセスが普及することで、図書館は購読費を大幅に圧縮することができる。しかし、ここで登場するのは、オープンアクセスにするためには、投稿者に対する助成が必要ということだ。そうでなければ上で見たように、学術雑誌は成立しない。結局、読むのに助成が必要なのか書くのに助成が必要なのかということになる。

 だが、この比較は実はあまり重要な話ではない。助成での運用ということになると、資金をだしているのは、読むにせよ書くにせよ最終的には政府だからだ。科学全体の発展のために、読むのに資金をだすのか書くのに資金をだすのかどちらが有利かという経済効果の問題となってくる。こうした投資効果といった研究はまだあまりなされていないようだが、オープンアクセスを考える上では重要ではないかな。

(2007.2.12)

背信の科学者たち

OLJとは直接関係がないが、あまりにおもしろかったので、紹介したい。

「背信の科学者たち-論文捏造、データ改ざんはなぜ繰り返されるのか」(ウィリアム・ブロード、ニコラス・ウエイド 牧野賢治訳 講談社ブルーバックス)。

原著は20年ぐらいのものだが、日本の状況が20年前のアメリカにそっくりだということがわかる。基本的に著者の主張は科学はかならずしも「アプリオリな真実を解き明かすものではない」ということだ。科学は他の分野と違って、実験という議論の余地がない方法論が基礎になっているから、真実への偽装はおこらないとする思いこみこそが捏造を生んでしまうという。

科学の認知構造はいわゆる「仮説演繹法」であり、それを保証するのが実験だ。実験は再現可能であり、もし嘘をついたとしてもすぐに見破られる。また、論文はピアレビュー(同僚科学者による審査)を通じて検証されるので疑わしいものはその段階で排除され、結果として科学は真実の体系として維持される。このうことを我々は無前提に信じてきた。しかし著書はこれこそが思いこみだという。まず、実験については他の研究者のおこなった実験の追試は滅多におこなわれないということを指摘する。研究とはオリジナリティが大切であり、他の研究者が行った実験を追試しても、評価にはならないからだ。結果として捏造された実験データであっても、それが覆されることは滅多にない。また、ビアレビューも体裁さえ整っていれば、いちいち実験を疑うことはしないし、そもそもあまりに膨大な論文が生産されるので検証などおこなわれない。結果として、捏造や剽窃がまかり通るというわけである。

2005年韓国を揺るがしたヒトES細胞事件のように結果が画期的なものであれば、検証される可能性大きく、事実暴かれたわけだが、そうでないような小さな発見については巧妙な捏造工作が行われればまず発見は不可能という。

では、なぜ科学者は捏造の誘惑に駆られるのだろうか。著者は現在の科学者が真実を求める求道者ではなく、一職業人であるからという。これは現在に限った話ではなく、歴史的にみてもプトレマイオスもガリレイもメンデルも捏造を行った形跡があるという。現在それがめだつのは、科学の世界が圧倒的な競争社会だからだ。有利な就職条件をえるために、新たな研究費を獲得するために、論文の数と評価が必要だからだ。その中で、結果をだせないとき、科学者は捏造の誘惑にかられてしまう。最初はちょっとした恣意的なデータ選択かもしれない。しかし、それが通ってしまったとき、より本格的な捏造へと足をふみだしてしまい、最後には後戻りのできないところにいってしまう。

「欺瞞は科学そのものの中に存在することを認めることによってのみ、科学の本質が理解できる」

重い。

(2007.2.3)

NIHプロポーザルからコーニン・リーバーマン法案へ

さて2005年に発行したNIH プロポーザルあらためNIHポリシーはどうなったのだろうか。

NIHポリシーは当初プロポーザルの段階では「NIHからファンドを受けた研究は、半年以内に無料でPubMedCentralに載せなければならない」としていたものが、主に出版社からの大反撃を受けて「NIHからファンドを受けた研究は、1年以内に無料でPubMedCentralに載せることを推奨する」となった。牙を抜かれたわけである。これで、1年立って結果がどうだったかといえば、該当する論文の4%しか載らなかったのである。25編に1編。これは完全なNIH の敗北といっていいであろう。無料公開に対して、出版社がいっせいにボイコットしたといってもいいのではないか。出版社にしてみれば長年培ったビジネスモデルを根本的に否定するわけだから、簡単にハイとはいえない。

ただ、政府が金をだしてやらせた研究の結果を見るのに、なぜ海外の出版社にお金を積まなければならないのだというしごくまっとうな感覚は米国議会筋にはくすぶり続けている。

米国共和党上院議員コーニンは民主党のリーバーマンとまさしく超党派の連邦政府研究パブリックアクセス法案を提出した。その方針は「1億ドル以上の研究予算をもつ機関は研究助成の成果である論文を6ケ月以内にオンラインで利用できることを保証せよ」というものだ。NIHのようにPubMed Centralに限らず、当該機関が保持するか他の適切なレポジトリに載せ、無料でアクセスすることを要求している。

もちろん、出版社は猛烈に反発している。

はたしてどうなっていくだろうか。

(2007.2.3)


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