電気自動車1年

電気自動車LEAFに乗り出して1年。あまりによすぎる。これはもう一切ガソリン自動車に乗る気がなくなった。今まで、それほど車に趣味があった方ではないが、LEAFに乗り出して、頻繁にドライブにでかけるようになった。気持ちいいのだ。スムーズな加速と、静かな乗り心地。これはなにものにも代えがたい。そして、たぶんこれは電気自動車というわけではないのだが、LEAFの備える自動運転の楽しさだ。

自動運転といっても現状では、レベル2と言われるもので、常時前を見てハンドルを操作し緊急時のプレーキは自分で踏まなくてはならない。しかし、希望速度を設定しておくだけで、アクセルから足を離しても勝手に走ってくれるだけでも、ほんとうに楽だ。前に車がいるときは前の車に一定間隔をあけて追随してくれるので、運転の負担感がまるで違う。最初は高速道路でおっかなびっくり使ってみたが、アクセルワークを気にしなくていいので、ハンドル操作に集中できる。しかもハンドル操作も高速道路だとある程度車任せにしてしまえる。勝手にカーブを曲がってくれるのは快感そのもの。制限速度を気にして、いちいち速度メーターを確認しながら、前の車との車間距離をたもって運転するという昔の運転にはもう戻れない。

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ただ、一般道では、信号も多いしカーブも多いので、自動運転では危なかった。最初やってみて、一度は懲りた。前に車がいないと、設定速度一杯でカーブにつっこまれるから、非常に危ないのだ。信号でも前の車が曲がっていなくなると、急に交差点で加速したり、自動運転が切れたりする。もっとも、この特性に慣れてくるとそれを回避できるようにもなってくる。制限速度とはよくしたもので、制限速度標識の通りに速度設定しておくと、カーブの危険性はほぼなくなる。信号だけはどうにもならないが、これもそんなもんだと思って、赤信号を見かけたらプレーキに足で触れればいい。自動運転はプレーキに一瞬力をいれるだけで切れるからだ。

自動運転は渋滞で特に威力を発揮する。前の車がとまればとまる。これは本当に楽だ。動き出してもそれに追随はしてくれないのだが、ハンドルのスタートスイッチを親指でおすだけだ。だから、渋滞となれば自動運転にして、アクセルから足を離してしまい、あとは親指だけしか使わない。

弱点はやはり充電だろう。私は自宅に充電設備を設けたので、帰宅して充電しておくと、翌朝には満充電になっているが、マンションなど、充電設備のないところでは難しいだろう。満充電での走行はうまくいけば300キロ近くいける。これは今までのガソリン車の満タンでの走行距離と大差ない。1日300キロだとたいていのところへはいける。高速道を使っても4・5時間は走るわけで、逆に1日5時間以上も運転したら危ない。ただ冬場ヒーターを使うとてきめんに減りがはやくなり、走行可能距離は200キロに落ちる。まあ私は1日200キロ以上走るほど元気ではないので、問題にはならない。LEAF e+だとさらに伸びるらしい。

自宅から200キロ以上離れた先に行ったときには充電する必要がある。充電ステーションはさがせば、どこにでもあるようになった。宿泊する時は、充電設備のある旅館やホテルを探す。現在増えているし、充電設備のある宿泊施設にしかいかないという行動を電気自動車オーナーがみなとれば自然に増えるだろう。その他、SA PAの充電設備は混んでいるので、道の駅やモール、公共機関をさがす。地方の市役所の駐車場なんかは狙い目だ。もちろん、全国津々浦々にあるニッサンや三菱のディーラーはベスト。高速充電できるし、待っている間ディーラーのショールームでお茶でも飲んでいられる。

不満を言うなら、メーターだ。なんでアナログのスピードメーターを残したのか、それも機械式だ。メーターパネル全面を液晶パネルにして、ユーザーが自分用にアナログかデジタルかセッティングできるようにしてもらいたいものだ。LEAFに限ったはなしではないが、カーナビとメーターパネルの位置は入れ替えた方がいい。見る頻度が全然違う。正面にカーナビと速度のデジタル表示。あとの情報は今のカーナビの位置でいい。テスラはそうなっている。私は一度オランダで乗ってその先進的な考え方に心底感動した。ニッサンはまだまだ電気自動車について考えが甘い。旧来の自動車の概念から離れられていないい。

結論として、制限速度を無視してカリカリ飛ばしたり、一日数百キロものるような御仁にはおすすめではないかもしれないが、一般人にとっては最高。逆に車の評論関係で評判が悪いのは、車をわたしたちのように道具としてではなく、趣味として乗るような人が多いからではないかな。

老人に巨大ディスプレイ

自宅のメインマシンのディスプレイを4Kの43インチに替えた。43インチというと、家族みんなで視聴するテレビとしても、かなり大きい部類と思う。これを机の上に置いたら、ほとんど衝立である。2-3M離れて視聴することを推奨されるサイズを50センチ距離で見るわけで、とにかく視野がディスプレイに覆われる。 

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なぜまあ、こんな衝立のようなディスプレイを買うことになったか。はっきり言って老眼である。小さなものが見えないから、小さいディスプレイでは老眼鏡がないと文字が読めない。やっかいなことにコンピュータ用はいわゆる読書用とは違う度数のレンズがいる。机の上には、外出用の遠近両用、読書用の近距離老眼、コンピュータ用に中距離老眼が並ぶ。それを都度とりかえるのは面倒だし、間違える。そもそも老眼鏡をかけ続けると疲れる。

これを克服する方法が、表示文字設定を大きくすることなのだ。普通9か10ポイント程度の表示が多いが、これを20ポイントぐらいにあげると、老眼鏡をかけなくても見える。この文字を大きくする機能はWindowsの基本機能にもあるし、各ソフトの設定でも変更可能だ。
しかし、この方法に問題があるのは、賢明なる読者諸氏はすぐにお気づきであらふ。

さよう、画面が狭くなるのだ。印刷雑誌の読者ならすぐに了解されることと思うが、10ポイントで40字表示できていたとしたら、20ポイントだと20字しか表示できない。これは小さい画面だと横が表示できない上に、縦も文章途中で切れてしまう。もちろん複数のウィンドウを開けて同時作業や参照作業などできない。従って、どんどん画面は大きくせざるをえない。この4Kの前は、自宅も会社も34インチウルトラワイドという横に長い画面を使っていた。これで、3440×1440pixelという画面だった。通常は1920×1080pixelのFull Hivisionで使っている方が多いと思う。ちょっと以前は1024×768のいわゆるXGAと呼ばれるものが長く使われていた。ウルトラワイドだと字もそこそこ大きくできるし、横にどんどんウィンドウを拡げて行ける。PDFで2期分の決算書を対比しながら事業計画を書くといった用途にも不足はなかった。

しかし、Indesign編集をやると話は別、まず縦が1440pixelではA4を全面表示させると小さい。もちろん老眼には苦しい。さらにIndesignで文書作成するときは大抵Photoshopも同時に開けるし、画像一覧ソフトも表示したい。となると、ウルトラワイドでも足りない。

で、43インチ4Kということになるわけだ。4Kはご存じのようにHi-Vision1920*1080pixelの縦横とも2倍した3840*2160Pixelである。ウルトラワイドより横は少し長いだけだが、縦が1.5倍もある。1.5倍の描写力はすごい、余裕で念願のA4実寸大表示が可能となりました。これはラクチン。

もちろん、問題は多々あって、一番最初に困ったのは、マウスのポインタが広大な空間で行方不明になることだった。特に上の方にあるとなかなか気がつかない。マウスを動かしても見つからない。そして眼がひどく疲れる。やってみてわかったが、要は人間の視野の問題なのだ。目ん玉は左右に自由に動くが、上下にはあまり動かない。上を見ようとすると、首から動かさなくてはならない。だから、ウルトラワイドの超横長というのは理にかなってはいたのだ。そう、実際に43インチを使っても、見ているのは下の方ばかりで、上はあまり見ていない。

このことが、置き場所の問題とともに4K43インチディスプレイが価格が下がっても普及しない理由ではあるのだなあ。EXCELやLINEを使う時、とてつもない行数が表示できたり、ウィンドウを4つぐらい開いてもまだひとつひとつがHi-Visionサイズで表示できたりメリットはまだまだあるのだが、とにかく会社で使用するのはやめることにした。いよいよ社長がコンピュータを衝立にして立て籠もったと言われかねないからなあ。

スマート老人の逆襲

 家電量販店にて、スマホ特別セールの兄さんに引き留められた。

「スマホはいかがですか。これからはスマホの時代です。高齢の方にも簡単に使える機種もでていますんで、是非手にとってごらんください」
 スマホも一通り普及して、これからは老人がターゲットなのだろう。私はおもむろに自分の先月変えたばかりの最新鋭アプリてんこ盛のスマホを見せる。

「もう、持ってるよ」

 というと、兄さんは明らかに動揺した様子で道を譲ってくれた。

 あのなあ、年寄りを一括りに考えてはいけない。この連載の原点「若旦那コンピュータ奮闘記」以来、もはや四半世紀。コンピュータ知識をふりまわして、老経営者を煙にまいた若手経営者も、もうベテランの「コンピュータ大旦那」になっているのだ。私たちの世代の仲間が集まれば、もう最新のスマホやスマートウォッチの自慢合戦だよ。

 それに、たぶん君たちよりコンピュータは詳しい。昔の電算写植はマウスも画面もないから、コンピュータのかなり深い知識が必要だった。君たちはもう知らないだろうが、プログラムのコーディングができないと使いこなせかった。だから初心者向け言語のBASICなんてお手の物。今でも、クライアントの複雑なデータ整理に生半可なツールではなく、EXCELのVBA(VISUAL BASIC)で書いてしまう方が楽だ。最近のコンピュータのグラフィカルなユーザーインターフェースがかえってなじみにくいぐらいだ。

 我々にとってもスマホは本当に便利でもう手帳もほとんど使わなくなった。スケジュールも全部アプリを使ってクラウドで管理している。さまざまなアプリを入れているが、適当なアプリがなければ自作する。カラオケに曲が収録されてなかった時用に好きな歌の歌詞を書いたアプリとか、最近ではお寺に行ったときのためにお経や真言を書いたアプリまで用意してある。暗いお寺の本堂で目映く光るスマホを眺めて真言を唱える。

「オン・アミリタ・テイセイ・カラ・ウン」

 しかし、上には上があるもので、先日ある会で、矍鑠としてWINDOWS10の問題点について論じる80歳を越えるという老経営者にお目にかかった。元プログラマで、印刷業界のコンピュータ化に希望を感じて起業したお方らしいが、もちろん自宅でもパソコン三昧。そして同年代の奥様もそうだという。聞けば、この奥様、元はキーパンチャーだったというではないか。日本の企業にコンピュータの普及が始まってもう50年。そのころコンピュータを覚えた世代はもう70代以上だ。

 印刷業界も電算写植導入から40年。DTPから30年。当社でも電算写植第一世代はほとんど定年退職された。この第一世代は活版の職人から転身したような人も多かったが、苦労されただけコンピュータ技術が身についておられる。こうした方々は老後の楽しみに、老人会のコンピュータ担当をされたり、ブログを運用されているともきく。

 もちろん、私の同級生でもコンピュータに疎い人は多いし、私より年下でも電子関係はからっきしという人も珍しくない。同世代でも英語に堪能な人もいれば私のようにいくらやっても話せない者もいるが、それと同じだ。どの世代でもどんな技術でも得意・不得意はある。ただ、コンピュータに関しては我々の世代と少し上の団塊の世代とは少し違う感じはする。団塊の世代は仕事にコンピュータが使えなくても生きていけたが、我々から下の世代はコンピュータを使えなければ、社会生活そのものが営めなくなっていた。

 コンピュータ時代の先頭を走ってきた世代がこれからスマート老人になる。これは強いよ。コンピュータにも明るく、社会経験も豊富。本当はコンピュータとアプリが偉いのに自分の実力のように勘違いして偉そうにする若い連中に一泡吹かせてやろうか。もちろん若者にこういう対抗心を抱くこと自体が老害ということは(一応)認識しております。

頭の検索エンジン

 3年前になくなった知人の蔵書を処分することになったと遺族が知らせてきた。欲しい本は譲るというので何冊かもらってきた。この知人は蔵書家でかつ印刷会社の経営者でもあったからか、ことの他本を大事に扱っていた。増え続ける蔵書のため自宅に3階建ての書庫を増築されたぐらいだ。その書庫はお気に入りの書斎と一体化しており、完成したときに見せてもらったが、同じく本の置き場所に困っていた私は羨ましかったものだ。

 蔵書を書棚に並べることは愛書家の願いだと思う。一度読んだ本は、次に読み返すこともないのに、手元に置いておきたくなる。もちろん愛書家は必ずしも読書家ではないのは認める。私も買ってはみたもののは読んでもいない本は結構ある。ただ読むにせよ読まないにせよ本は増え続ける。

 私はこの増え続ける本を並べたいがために古い本を段ボール箱に詰めて倉庫に積みあげるということをこの20年繰り返している。最近ではその段ボール箱を置く場所すらなくなって、結局は段ボール箱ごと古本屋に売り払ってしまった。印刷屋にとって情けないことに最近は古本の相場も暴落していて、二束三文だった。
 

 しかし、意外と言えば意外なのだが、あれほど大事と思っていた本なのに、段ボール箱に詰めて保存しておいた本を売り払っても一向に困っていない自分に気がついた。読んでみようという気もおこらないし、そもそも何があったかも忘れてしまっている。
ではなぜ本を座右に置いておきたくなるのだろうか。本の内容が好きだから、その媒体である本自体も好きになるということは第一だが、本を書いたり、講演をしたりするようになると、そのための参考書がそばにないと困るからだ。そして、書棚に置いてある本の内容は「この件、書棚のあのあたりの本に書いてあったぞ」と簡単に思い出せる。人間の頭は強力な検索エンジンなのだ。 

 だがこの検索エンジンは書棚の本にしか威力を発揮しない。段ボール箱に詰めてしまうと働かなくなる。考えてみると段ボール箱の中の本が必要と思ったことはなかった。同じようにスライド書棚の後ろの方に行ってしまった本も段ボール箱ほどではないが微妙に忘れていく。

 もちろん、段ボール箱に詰めるということ自体、その本が非重要で、今後、参考として必要なさそうだと判断しているからというのは当然にある。だが、詰めた瞬間に検索エンジンの対象から外れるのは背表紙を見なくなるからではないか。人間検索エンジンは常に書棚を眺めて、背表紙を無意識に読むことで、その記憶をリフレッシュしている。それがないと直ちに機能停止するのだ。

 だから蔵書の持ち主が亡くなったとき、その蔵書は持ち主という検索エンジンを失い、単なる古本の集合と化す。知人の蔵書がまさにその状態だ。中には図書館や大学に「○○コレクション」とか「○○文庫」というかたちで永久に保存してもらえる幸福な蔵書もあるがそれはごく一部だ。

 さて電子書籍。背表紙がないからあたりまえだが、背表紙検索エンジン効果はない。これは断言する。表紙の書影が並ぶというシステムはあるが、何千も書影を並べられても読み取れない。結局電子書籍で読んでも内容が思い出せなくなってくる。電子書籍推進の立場でいた私にしてこれは認めざるをえない。このことに気がついて以後、図書史や印刷史という私の専門分野に限って言えば、電子書籍では読まないようにしている。忘れてしまうからだ。忘れてしまっては資料にならない。

 もちろん、電子書籍はデータベース化という手段がとりやすい。読んだ電子書籍の書誌情報と内容をデータベースで管理すれば、人間の頭というような検索エンジンより、はるかに強力な検索ができる。しかし、個人蔵書のデータベース作成なんてあまりに面倒だ。紙の本なら買ってきて積んでおいて、暇なときに読むだけで自動的に頭の中で検索エンジンが形成されるのだから、これに勝るものはないんじゃないか。

 

IoT自動車

 自動車を買い換えた。今回はいろいろ悩んだが、すくなくともガソリン自動車という選択はなかった。選択肢はハイブリッドか、純粋電気自動車。ハイブリッドも魅力的ではあったが、つきあいのあるディーラーに適当なものがなく、もう思い切って純粋電気自動車リーフにすることにした。


 電気自動車といっても最新の車種ならば機能的にガソリン車と遜色ない。速度も乗り心地もまったく変わらない。ただし、欠点は航続距離と充電時間である。少しこの点は心配ではあったが、元々自動車でそれほど遠出をするわけではないし、充電時間も自宅に200Vの設備があれば、夜、寝ている間に充電できるから問題はないだろうと購入に踏み切った。

 これが大正解。驚いたことにモーターの加速がスムーズで力強い。専門的に言うと低速域でのトルクが強く、V8やV12といった多気筒大排気量のスーパーカー並の加速性能を発揮する。これが実に心地よく、ひさびさに車を運転する楽しさを味わっている。

 で、当然IoTおじさんとして興味のあるところはその電子機器としての性能である。電気自動車に限った話ではないが、最近の安全装置や自動運転機能は昔の自動車の概念をとことん変えてしまっている。

 安全装置については各種衝突防止や障害物センサーなどてんこもりの仕様にした。若旦那シリーズ以来25年。私も63歳、もう高齢ドライバーの部類であり、安全装置は必須だ。おかげで信号待ちで隣をバイクがすり抜けていくだけでセンサーがけたたましく警告してくれる。過敏な気もするが、守られている感じはする。

 自動運転はかなり進んだ。高速道路では一旦セットすると同じ速度で走り続け、前に車がいれば、そのうしろをぴったり追走する。もちろんハンドルも自動制御されハンドルから手を放してもカーブでは勝手にまがっていく。ただ最後の責任は運転者がとれということか、ハンドルから完全に手を放して、5秒すると車が警告を発して自動運転を辞めてしまう。これは機能上というより法制度上の制約だろう。

 当然ながら、ネットには常時つながっている。スマホからあらかじめエアコンのスイッチをいれたり、充電を制御したりということが可能となっている。このエアコンの遠隔操作は夏場には本当にありがたい。それだけでなく自宅のパソコンから事前のルート検索や充電器の情報などが手に入る。電費(ガソリン車の燃費にあたる)も綿密に計算したものがパソコンで見られる。これらは、メーカーのサーバーにビッグデータとして蓄積され、今後の開発に情報提供していることだろう。

 電気自動車は自動車を根本的に変えた。私たちが子供の頃、名神高速道路が開通した。当時制限速度が100キロだったことに驚いた。が、この制限速度はその後50年間変わらなかった。ようやく最近になって例外的に120キロになったが、その進歩はおそろしく緩慢だった。自動車のエンジンもボディデザインも基本的に変わらなかった。電気自動車は違う。別の側面から大進化をとげて、まったく別物の機械に生まれ変わっていた。おそらくこの先、自動運転が進化すれば、人は運転しなくてもよくなるだろう。自動車に乗ってて「どこそこへ行ってくれ」と自動車に直接語りかけると目的地に勝手に運んで行ってくれ、充電も勝手にやってくれるようになるだろう。

 この革命はしかし始まったばかりだ。印刷会社は30年早く、こうした革命的変革を経験した。自動車のボディのように、本も以前と外観は変わらないが、コンピュータによってその製造の中身はまったく変わってしまった。そして、いまインターネットと電子書籍でさらに根本から変わりつつある。その意味で、現在の電気自動車は印刷業界で言えば、まだDTPがようやくできたころのレベルだ。これから、CTPがあって、デジタル印刷があって、そして電子書籍へと展開して外面も変わる。我々は革命の先駆者として自動車業界の先輩づらしてもいいかもしれない。

 

デジ(タ)ル卵

最近、チェーンの居酒屋へ行くと、備え付けのタブレット端末で酒やつまみを注文するようになっている。インバウンドの客も多いのか、日本語だけでなく英語や中国語に表示が切り替えられるようにもなっている。これで英語や中国語のできる店員がいなくても、お客は言語を切り替えて注文が出せることになる。

人出不足の常態化した店内では店員は呼んでもなかなかこないし、注文は間違えられる。やっと来た店員も日本語が満足に通じなかったりもする。今は人件費がもっとも高くつく時代でもあるし、こういったシステムになるのはもう時代の流れだろう。テーブルにタブレット端末が置いてあってそれで注文するというのを最初に目にしたときは戸惑ったが、すぐに慣れた。若い人はタブレットを次々手渡しながら、わいわい言いながら、こうした注文自体を楽しんでいるかのようだ。

しかし慣れない人も多い。とあるタブレット注文型の居酒屋で、老人の団体がぶつぶつ不平を言うのを聞いた。一応、店員もいるのだが、それこそお運びの方に手間を取られて、なかなか注文取りにまでは手が回らないから、老人達はタブレットと格闘せざるをえなくなっていた。相当に難航しているようだ。普段からタブレットのタップやフリックに慣れていないと、「何がなんやらわからない」ということになるだろう。あきらめて、店員が来るまで待つことになったようだが、もう爆発寸前である。同情はするが、これはもう慣れてもらうしかない。既に、若い労働力が無限に使える時代ではない。この老人達、爆発しなかっただけましとしよう。こういう店で、サービスが悪いと怒鳴り出す老人は本当に勘弁して欲しい。

逆に興味深い話を聞いた。若者達は、もうタブレットでないと注文ができなくなっているというのだ。メニューに載っている漢字がそもそも読めないらしい。たとえば出汁巻き卵。これを読めない若者がいるというのだ。

こういうとき苦し紛れに、あるいはなんの屈託もなく「デジル卵」と読まれてしまう。

「デジル卵」と言われてしまったら、店員は相当に勘が鋭くないと「出汁巻き卵」のことだとはわからない。当然、注文を聞く側も混乱するから、話がとんちんかんなことになってしまう。それに対してタブレットだったら、各メニューの画像がそれぞれ掲載されているから、ししゃもが欲しければししゃもの画像をタップすればいい、出汁巻き卵がほしければ、出汁巻き卵の画像をタップすればいい。そう考えるとタブレットの方が注文を出す方も、受ける方もよほど便利だし、どちらにも親切だ。また、インバウンドの人も英語や中国語を話す人ばかりではない。最近の3000万人というインバウンド観光客にはインド人、タイ人、イラン人といったラテン文字も漢字も使わない国からの人々が増えてきている。こうした人々全部の言語に対応するタブレットを作るよりは画像1枚あげておく方がよほど簡単だし、誰にもわかりやすい。ビールの画像は誰でもすぐわかる。出汁巻き卵も、おそらくは写真でみれば間違えないだろう。

結局、タブレット注文は言葉ではなく画像で意志を疏通させることを可能にする。

「ビールに枝豆、出汁巻き卵」と言うだけで、意志を通じさせられたのは日本には日本人しかいず、それも日本人全員が漢字を読めた時代でしか通用しない昔話である。

これを日本人の退化ととるか、画像とIoT文明の勝利とみるかだが、私はこれはもうIoTの勝利だと思う。これから日本はどんどん人が少なくなる。移民を受け入れたって追いつかないだろうし、移民にこと細かい日本語のニュアンスを伝えるのはもうあきらめた方がいい。それより、世界共通の画像による共通意味理解をIoTの機器を使って可能にすればいい。これはもうデジタル文明の偉大な勝利といっていいのではないだろうか。画像とIoTで、意志が通じていけば、本当に世界はまた豊かな時代となるのではないかな。

出版の垂直移動

 出版の落ち込みがとまらない。特に雑誌はつるべ落としで部数を減らしている。私も週刊雑誌の類いはまったく読まなくなった。新幹線にのるとき、以前はキオスクで週刊誌の一冊も買っていたものだが、まったく買わなくなった。なにしろスマホかタブレットでSNSのチェックでもしていれば2時間ぐらいあっというまに過ぎてしまう。雑誌を読む必要性がない。当然、出版社も苦しいし、その下請けを続けている出版印刷はなおのこと厳しい。

 さらにオープンアクセスという新たな出版形態が登場してきた。あえてここでは出版形態と言ったが、オープンアクセスは主に電子学術雑誌で使われる概念で、電子学術雑誌をただで誰でも読めるようにしようという運動である。確かに一般の出版とは少し意味が違う。ただ、今後の出版について大いに影響があると思われる。これは元々図書館のニーズからはじまった。図書館にしてみれば、無料で公開されれば購入費がかからないから運営上メリットが大きいのだ。日本の文部科学省はじめ世界の学術関係の政府機関はオープンアクセスは大歓迎のようだ。研究費を出して研究させたのに、その結果を読むのに出版社に金を払うのでは二重取りされているように見えてしまうからなのだ。

 しかし無料で公開するにしても、原稿を集め、編集してホームページに掲載する作業はいるわけで、当然製作費用はかかる。それを誰かが負担しなければならない。この回答は簡単で世の中すべてがオープンアクセスになれば、その分図書の購入費が浮く。それを発信する側にまわせばいい。図書館で編集して発行するリポジトリと言われる手法だ。つまり図書館が受信から発信にまわる。そうすればお互いに課金手続きやライセンス管理も減らせ、事務費用の大いなる軽減にもなる。それこそ一石二鳥というものだ。

 著者から掲載料をとってもいい。ネット配信なら印刷費も郵送費もかからないから、制作費は極めて低く押さえられる。それをページ割で著者負担にしたところでそれほど多額にはならない。

 オープンアクセスの議論を考えていると、これは出版ビジネスの完全な転換であることに気がつく。出版というのは、お金をとって情報を売るという行為だ。著者から原料としての原稿や写真の提供をうけ、加工して商品化し、書店におろす。電子書籍は、この最後の商品化の部分が紙から電子になった。それだけだった。つまり情報加工とそのマネタイズという意味では、本のビジネスモデルがそのまま水平移動して電子書籍と言っているだけなのだ。

 オーブンアクセスのビジネスモデルはこれを完全にひっくりかえしている。いや逆でさえない。垂直に移動しているといえるのではないか。出版の垂直移動だ。

 元々、ネットではブログというかたちで自分で書いて自分でただで公表するという形態が一般的だった。それにアフィリエイト広告をつけてマネタイズするということも行われてきていた。これは雑誌の広告料依存モデルのやきなおしと言えなくもないが、こちらの方が新しい垂直出版モデルには近いと思える。

 出版モデルをいったん解体、オープンアクセスを前提として垂直移動することで、新しい出版産業ができるのではないか。もちろん前述のように原稿を直にホームページに載せるだけでは出版にならない。出版たりうるためには編集とリンクや構造化といったデジタル処理がいる。ところが、前者はまだしも後者に旧来の出版社は関心を示さない。出版社の仕事とは思っていないのではないか。

 だとするなら、この垂直出版モデルはむしろ印刷会社の仕事にできないだろうか。印刷会社は紙の本の流通というビジネスのノウハウこそないが、ネット配信や公開用データファイル作成というところではむしろ近くにいる。印刷会社は出版社の下請けの地位から脱して元々出版社のいた生態系にあらたな出版生態系をうちたてることが可能ではないか。IoT屋がこの生態系にやってくる前に、先に開拓して住み着いてしまおうよ。

展示会のコンベンショナル印刷

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私が初めて印刷の展示会というものにでかけたのは1969年だった。もう50年も前だ。もちろん子供の頃である。印刷会社の経営者であった父が、なにを思ったか突然私を東京まで連れていってくれたのだった。当時の会場は晴海だったように思う。そのころ、父の会社、つまり今は私が経営する会社は活版専業だった。活版こそ、印刷の王道と信じて疑わない父は活版の新しい機械を探しに行っていたのだ。ところが1969年に活版の機械はほとんどなく、平版関係の機材ばかりだった。父は私に聞いた。「これから印刷はどうなると思う」、私は機構などわからないまま「平版になる」と答えたように思う。

 展示会の趨勢は5年後10年後、全国の工場の趨勢になる。もちろん、あだ花のように、展示会場でだけ咲く機械もあるが、各社が競うように同じ機構の機械を競うなら、それが将来は主流になる。

 では今後はどうなのか。IGASを見る限りもうデジタルであるとしか言いようがない。もうこれに異議をとなえる人はないだろう。デジタルはありとあらゆるメーカーから、さまざまな製品が開発され、まさに百花繚乱というか百家争鳴というか。以前デジタル印刷は、長短納期、少部数印刷や1枚ずつ違うものを刷るワンツーワンといった特殊用途の印刷用と思われていたが、今や高級美術印刷といった領域にも適用を広げている。軟包装材といった分野にも進出が著しい。

 ではコンベンショナル印刷はどうだろうか。ここで言うコンベンショナル印刷は凸版もオフセットもグラビアもデジタル以前の版式はもうコンベンショナル(伝統的な・従来の)でひとまとめにしてしまう。コンベンショナル印刷という言葉、去年初めて聞いたときには、ずいぶん過激な表現だなと思っていたが、今やメーカーは普通に使うようになってしまった。

 コンベンショナルとひとくくりにするのは、実はもうひとつ理由があって、もう版式や印刷機構が何であるかというのは市場の関心ではないのだ。IGASの主役はおそらく、デジタルかコンベンショナルかの対立ですらなく、スマートファクトリーの実現。要は自動化だ。つまりIGASの関心は印刷そのものの技術より、それをとりまく総合的な工場運用技術の方に移っている。 

 ちょっと前までは、自動化印刷工場というとデジタル印刷機の独壇場と思われていた。デジタル印刷機はデジタル機器そのものであり、コンピュータのプリンタで培われた自動化技術が多々使われている。いざスマートファクトリーを運用するとなるとデジタル印刷機が有利なのは間違いない。

 しかし各社が提案するように、コンベンショナル印刷も工場という複雑なシステムの中に組み込まれる時代になっている。これは意外に正解かもしれない。スマートファクトリーに完全に組み込まれたコンベンショナル印刷ということになると、これは強い。まだまだコンベンショナルの優れた品質やスピードなどが、スマートファクトリーの中に組み込まれれば、また新たな価値を生み出すことになる。あるいは短納期少部数といったデジタル機の領分を自動化の行き届いたコンベンショナル印刷機が脅かすといった逆転現象を起こすかもしれない。

 50年後、歴史はこの時代の印刷技術をどう記述するだろうか。50年前父はオフセットに結局目もくれず、活版機を買ったのだが。

先祖がえり、あるいは校正ゾンビ

「いとしの印刷ボーイズ」という漫画がおもしろい。印刷会社の営業を主人公に、印刷会社でおこるさまざまなトラブルを漫画にしたものだが、業界人にとっては笑えると言うより、はっきり言って泣ける。業界あるある漫画として秀逸。是非、一読をお薦めする。

さて、その中にDTPのオペレーターが先祖返りをやらかして、会社中で徹夜するはめになるという場面があった。「やってるなあ、まだあるんだ」と懐かしく思った。

そうこの漫画で言う、先祖返りとは、一度校正で直したところが、また寸分違わず復活してくるという現象だ。たとえば、初校で間違いを指摘して、再校でその間違いが直っていることを確認したにも関わらず、三校では再校で指摘した間違いは直っているのに、初校で指摘した間違いが寸分違わず復活してくるという奴だ。その不気味なこと不気味なこと。気がつけばよいが、普通三校では再校の訂正だけを確認し、初校の間違いは確認することもないから、初校段階のものが世にでてしまう。これがおきると、もう印刷会社の営業は平謝りするしかない。

この現象は、校正段階で、初校、再校とそれぞれのファイルを残すことからおこる。初校ファイルを訂正して再校ファイルができるわけだが、三校の際、再校ファイルではなく初校ファイルに訂正を加えるとこの現象を起こす。校正のたびにファイルを上書きしていけばこの現象は起こさないはずだが、あとでクライアントから、「やっぱり元のままで行く」とか「前はどうなってたか調べて」というような依頼があるから現場も営業も残したがる。コンピュータではコピーを残すことは造作もないし、昨今のコンピュータの外部記憶容量(ハードディスクなど)は莫大なので、校正のデータぐらいは軽々とはいってしまう。だからとにかく過程も含めて全部残すわけだが、これが裏目に出る。

この現象が知られ出したのは印刷業界が初めてコンピュータに真っ正面から取り組んだ電算写植導入のころだ。活版や写植で育った営業や校正者にとってはとんでもなく奇怪な現象と思われたようで、当社ではこれを「校正ゾンビ」と呼んだ。誤植を殺しても殺しても正確に元のままの間違いが復活してくる、その現象があたかも校正の世界に徘徊するゾンビのようだったからだ。ただこのころは外部記憶容量は小さかったので、ファイルを意図的に残したというよりシステムが自動バックアップする機能をもっていてそのことを理解していなかったら生じたものだった。だから、いつのほどにかなくなった。・・・はずだった。

そうですか。まだまだやっているんだなあと漫画をみてほほえましく思っていたが、実はこの手の事故は形を変えて今でも結構おこっているのだ。たとえば毎年毎年、ほぼ同じ報告文書で昨年のものに上書きして今年の修正だけを記入していくというタイプの記事の場合、去年の原稿に修正上書きすべきところ、一昨年のものに修正上書きすると昨年の訂正がきれいさっぱり失われて、一昨年の物にすりかわってしまう。上にも書いたとおり、この手の間違いは発見しにくい。こうい場合の責任は校正見落としにあるのか、ゾンビファイルを使用した側にあるのか。これはもう争っても勝ち目はなかろう。

もちろん今では、どこが変化したか、余計なところを修正していないかを比べて、違っていたら警告を発するソフトというものも存在する。冒頭の先祖返りの例だと、再校と三校を比べて変化したところを検出すれば一発で見つかることになる。

それよりこの「いとしの印刷ボーイズ」に出てきた技が面白かった。立体視である。同じような図形を並べて、右目と左目で別々に見る。この時、脳はこの図形の違いを視差と認識し、それが立体であるように見る。従って、三校と再校ならべて立体視すれば、違っているところだけが立体視で浮かび上がる。私は一時立体視に凝ったことがあるので、立体視は得意だが、なるほどこれを校正に応用するというのは気づかなかった。こんどやってみよう。

縦書きの本質

3年ぶりにワシントンのNLMへ行ってきた。学術情報、特にオンラインジャーナルのXML規格であるJATSに関する会議JATSConへ参加するためだ。JATSConは3年ぶり、前回はとにかく日本語をJATSに載せたと言う事実だけを報告しにいったのだが、そのときの反応は私が期待したほどではなかった。XMLに関する技術的な発表が多い中、アジアの言語のJATS化といっても、アメリカの聴衆にしてみれば、何を言っているのかわからない、なにが画期的なのかわからないというのが正直なところだったようだ。

 ただ、その後、日本でJATSCon Asiaを開催したり、中国や韓国でもアジア言語のオンラインジャーナルに関するシンポジウムに参加したりしている間に、事の重要性が伝わったらしい。この界隈での知り合いが増えたせいもあるが、今回は結構発表前から声をかけられ、はじまる前には座長から3年前にも発表があって期待している旨のコメントがあった。

 今回のテーマは縦書きである。縦書きの論文をJATS化してオンラインジャーナルとして横書き掲載した経緯について発表した。縦書きについてはすでにCSS3やEPUB3でも可能となっているし、日本では今更というテーマでもあるが、JATSでは話が違う。JATSは文書の構造を重要視する規格で表現についてはあまり配慮しない。つまり、どのように画面上で表示されるかはあまり関心がない。画面上の表現は、デバイスによっていくらでも変わりうると考える。その点EPUBなどによるリフロー型の考えに近いが、より過激にデータベース志向といえる。

 もっとも、JATSもといった表現のためのタグがあるが、これはが表現以上の「意味」をもつからだ。たとえばで巻をあらわしたりで生物分類をあらわしたりする慣行があり、これは単なる表現ではなく構造上「意味」をもつ。

 では縦書きはどうなのか。縦書きと横書きで意味の違いがあるか、構造的に差異がでるか。これに答えられなければ縦書きは単なる文書表現の問題であり、JATSの規格には関係ないことになる。縦書きであろうと横書きであろうと、JATS XMLで表現された元の文書を縦書きで読みたければCSS3で縦書き表現して読めばいいし、横書きのままでよければ普通のオンラインジャーナルとして、理科系の論文と同じプラットホームで読めばいい。

 ただ、実際に縦書きをJATS化してオンラインジャーナルにしてみてわかったのは、それほど単純ではないということだ。

 まず、現在の日本では縦書き対応のオンラインジャーナルというものは存在しない。そもそも人文系論文をオンライン化しようという試みすら多くない。従って縦書き論文もJATS化して横書き表示せざるをえない。縦書きの横書き化だ。JATS的に言えば、縦書きであろうと横書きであろうと構造に変わりがないのなら、ここは自由に縦・横変換しうる。

 ここでただちに行き詰まるのは数字の問題である。縦書きの漢数字を横書き英数字に変換しなければならない。表現の問題だが、データベースとしても重要な問題だ。巻号ページという文書を特定するのに重要な情報は英数字でなくてはならない。

 だからといって一括置換で漢数字を英数字に置き換えるだけではおかしなことになる。自分の名前を「1郎」と表記されたら、一郎君は怒るだろうし、「念仏3昧」と書かれたら、仏教関係者はその文章を読むのを辞めてしまう。

 これは一例だが、縦書きと横書きには本質的な構造的差異がある。だからこそ、「縦書き」をJATSの中でも記述できるようにして欲しい。とまあこういう主張を行ったのだが、質疑応答がなかなか聞き取れず、反応は正直よくわからない。ただ、文化の多様性については敏感なお国柄のこと、一顧だにされないという感じではなく、むしろ「具体的提案が欲しい」という感じだった。引き続きアジアからは声をあげ続けていくしかなさそうだ。

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