デジ(タ)ル卵

最近、チェーンの居酒屋へ行くと、備え付けのタブレット端末で酒やつまみを注文するようになっている。インバウンドの客も多いのか、日本語だけでなく英語や中国語に表示が切り替えられるようにもなっている。これで英語や中国語のできる店員がいなくても、お客は言語を切り替えて注文が出せることになる。

人出不足の常態化した店内では店員は呼んでもなかなかこないし、注文は間違えられる。やっと来た店員も日本語が満足に通じなかったりもする。今は人件費がもっとも高くつく時代でもあるし、こういったシステムになるのはもう時代の流れだろう。テーブルにタブレット端末が置いてあってそれで注文するというのを最初に目にしたときは戸惑ったが、すぐに慣れた。若い人はタブレットを次々手渡しながら、わいわい言いながら、こうした注文自体を楽しんでいるかのようだ。

しかし慣れない人も多い。とあるタブレット注文型の居酒屋で、老人の団体がぶつぶつ不平を言うのを聞いた。一応、店員もいるのだが、それこそお運びの方に手間を取られて、なかなか注文取りにまでは手が回らないから、老人達はタブレットと格闘せざるをえなくなっていた。相当に難航しているようだ。普段からタブレットのタップやフリックに慣れていないと、「何がなんやらわからない」ということになるだろう。あきらめて、店員が来るまで待つことになったようだが、もう爆発寸前である。同情はするが、これはもう慣れてもらうしかない。既に、若い労働力が無限に使える時代ではない。この老人達、爆発しなかっただけましとしよう。こういう店で、サービスが悪いと怒鳴り出す老人は本当に勘弁して欲しい。

逆に興味深い話を聞いた。若者達は、もうタブレットでないと注文ができなくなっているというのだ。メニューに載っている漢字がそもそも読めないらしい。たとえば出汁巻き卵。これを読めない若者がいるというのだ。

こういうとき苦し紛れに、あるいはなんの屈託もなく「デジル卵」と読まれてしまう。

「デジル卵」と言われてしまったら、店員は相当に勘が鋭くないと「出汁巻き卵」のことだとはわからない。当然、注文を聞く側も混乱するから、話がとんちんかんなことになってしまう。それに対してタブレットだったら、各メニューの画像がそれぞれ掲載されているから、ししゃもが欲しければししゃもの画像をタップすればいい、出汁巻き卵がほしければ、出汁巻き卵の画像をタップすればいい。そう考えるとタブレットの方が注文を出す方も、受ける方もよほど便利だし、どちらにも親切だ。また、インバウンドの人も英語や中国語を話す人ばかりではない。最近の3000万人というインバウンド観光客にはインド人、タイ人、イラン人といったラテン文字も漢字も使わない国からの人々が増えてきている。こうした人々全部の言語に対応するタブレットを作るよりは画像1枚あげておく方がよほど簡単だし、誰にもわかりやすい。ビールの画像は誰でもすぐわかる。出汁巻き卵も、おそらくは写真でみれば間違えないだろう。

結局、タブレット注文は言葉ではなく画像で意志を疏通させることを可能にする。

「ビールに枝豆、出汁巻き卵」と言うだけで、意志を通じさせられたのは日本には日本人しかいず、それも日本人全員が漢字を読めた時代でしか通用しない昔話である。

これを日本人の退化ととるか、画像とIoT文明の勝利とみるかだが、私はこれはもうIoTの勝利だと思う。これから日本はどんどん人が少なくなる。移民を受け入れたって追いつかないだろうし、移民にこと細かい日本語のニュアンスを伝えるのはもうあきらめた方がいい。それより、世界共通の画像による共通意味理解をIoTの機器を使って可能にすればいい。これはもうデジタル文明の偉大な勝利といっていいのではないだろうか。画像とIoTで、意志が通じていけば、本当に世界はまた豊かな時代となるのではないかな。

出版の垂直移動

 出版の落ち込みがとまらない。特に雑誌はつるべ落としで部数を減らしている。私も週刊雑誌の類いはまったく読まなくなった。新幹線にのるとき、以前はキオスクで週刊誌の一冊も買っていたものだが、まったく買わなくなった。なにしろスマホかタブレットでSNSのチェックでもしていれば2時間ぐらいあっというまに過ぎてしまう。雑誌を読む必要性がない。当然、出版社も苦しいし、その下請けを続けている出版印刷はなおのこと厳しい。

 さらにオープンアクセスという新たな出版形態が登場してきた。あえてここでは出版形態と言ったが、オープンアクセスは主に電子学術雑誌で使われる概念で、電子学術雑誌をただで誰でも読めるようにしようという運動である。確かに一般の出版とは少し意味が違う。ただ、今後の出版について大いに影響があると思われる。これは元々図書館のニーズからはじまった。図書館にしてみれば、無料で公開されれば購入費がかからないから運営上メリットが大きいのだ。日本の文部科学省はじめ世界の学術関係の政府機関はオープンアクセスは大歓迎のようだ。研究費を出して研究させたのに、その結果を読むのに出版社に金を払うのでは二重取りされているように見えてしまうからなのだ。

 しかし無料で公開するにしても、原稿を集め、編集してホームページに掲載する作業はいるわけで、当然製作費用はかかる。それを誰かが負担しなければならない。この回答は簡単で世の中すべてがオープンアクセスになれば、その分図書の購入費が浮く。それを発信する側にまわせばいい。図書館で編集して発行するリポジトリと言われる手法だ。つまり図書館が受信から発信にまわる。そうすればお互いに課金手続きやライセンス管理も減らせ、事務費用の大いなる軽減にもなる。それこそ一石二鳥というものだ。

 著者から掲載料をとってもいい。ネット配信なら印刷費も郵送費もかからないから、制作費は極めて低く押さえられる。それをページ割で著者負担にしたところでそれほど多額にはならない。

 オープンアクセスの議論を考えていると、これは出版ビジネスの完全な転換であることに気がつく。出版というのは、お金をとって情報を売るという行為だ。著者から原料としての原稿や写真の提供をうけ、加工して商品化し、書店におろす。電子書籍は、この最後の商品化の部分が紙から電子になった。それだけだった。つまり情報加工とそのマネタイズという意味では、本のビジネスモデルがそのまま水平移動して電子書籍と言っているだけなのだ。

 オーブンアクセスのビジネスモデルはこれを完全にひっくりかえしている。いや逆でさえない。垂直に移動しているといえるのではないか。出版の垂直移動だ。

 元々、ネットではブログというかたちで自分で書いて自分でただで公表するという形態が一般的だった。それにアフィリエイト広告をつけてマネタイズするということも行われてきていた。これは雑誌の広告料依存モデルのやきなおしと言えなくもないが、こちらの方が新しい垂直出版モデルには近いと思える。

 出版モデルをいったん解体、オープンアクセスを前提として垂直移動することで、新しい出版産業ができるのではないか。もちろん前述のように原稿を直にホームページに載せるだけでは出版にならない。出版たりうるためには編集とリンクや構造化といったデジタル処理がいる。ところが、前者はまだしも後者に旧来の出版社は関心を示さない。出版社の仕事とは思っていないのではないか。

 だとするなら、この垂直出版モデルはむしろ印刷会社の仕事にできないだろうか。印刷会社は紙の本の流通というビジネスのノウハウこそないが、ネット配信や公開用データファイル作成というところではむしろ近くにいる。印刷会社は出版社の下請けの地位から脱して元々出版社のいた生態系にあらたな出版生態系をうちたてることが可能ではないか。IoT屋がこの生態系にやってくる前に、先に開拓して住み着いてしまおうよ。

展示会のコンベンショナル印刷

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私が初めて印刷の展示会というものにでかけたのは1969年だった。もう50年も前だ。もちろん子供の頃である。印刷会社の経営者であった父が、なにを思ったか突然私を東京まで連れていってくれたのだった。当時の会場は晴海だったように思う。そのころ、父の会社、つまり今は私が経営する会社は活版専業だった。活版こそ、印刷の王道と信じて疑わない父は活版の新しい機械を探しに行っていたのだ。ところが1969年に活版の機械はほとんどなく、平版関係の機材ばかりだった。父は私に聞いた。「これから印刷はどうなると思う」、私は機構などわからないまま「平版になる」と答えたように思う。

 展示会の趨勢は5年後10年後、全国の工場の趨勢になる。もちろん、あだ花のように、展示会場でだけ咲く機械もあるが、各社が競うように同じ機構の機械を競うなら、それが将来は主流になる。

 では今後はどうなのか。IGASを見る限りもうデジタルであるとしか言いようがない。もうこれに異議をとなえる人はないだろう。デジタルはありとあらゆるメーカーから、さまざまな製品が開発され、まさに百花繚乱というか百家争鳴というか。以前デジタル印刷は、長短納期、少部数印刷や1枚ずつ違うものを刷るワンツーワンといった特殊用途の印刷用と思われていたが、今や高級美術印刷といった領域にも適用を広げている。軟包装材といった分野にも進出が著しい。

 ではコンベンショナル印刷はどうだろうか。ここで言うコンベンショナル印刷は凸版もオフセットもグラビアもデジタル以前の版式はもうコンベンショナル(伝統的な・従来の)でひとまとめにしてしまう。コンベンショナル印刷という言葉、去年初めて聞いたときには、ずいぶん過激な表現だなと思っていたが、今やメーカーは普通に使うようになってしまった。

 コンベンショナルとひとくくりにするのは、実はもうひとつ理由があって、もう版式や印刷機構が何であるかというのは市場の関心ではないのだ。IGASの主役はおそらく、デジタルかコンベンショナルかの対立ですらなく、スマートファクトリーの実現。要は自動化だ。つまりIGASの関心は印刷そのものの技術より、それをとりまく総合的な工場運用技術の方に移っている。 

 ちょっと前までは、自動化印刷工場というとデジタル印刷機の独壇場と思われていた。デジタル印刷機はデジタル機器そのものであり、コンピュータのプリンタで培われた自動化技術が多々使われている。いざスマートファクトリーを運用するとなるとデジタル印刷機が有利なのは間違いない。

 しかし各社が提案するように、コンベンショナル印刷も工場という複雑なシステムの中に組み込まれる時代になっている。これは意外に正解かもしれない。スマートファクトリーに完全に組み込まれたコンベンショナル印刷ということになると、これは強い。まだまだコンベンショナルの優れた品質やスピードなどが、スマートファクトリーの中に組み込まれれば、また新たな価値を生み出すことになる。あるいは短納期少部数といったデジタル機の領分を自動化の行き届いたコンベンショナル印刷機が脅かすといった逆転現象を起こすかもしれない。

 50年後、歴史はこの時代の印刷技術をどう記述するだろうか。50年前父はオフセットに結局目もくれず、活版機を買ったのだが。

先祖がえり、あるいは校正ゾンビ

「いとしの印刷ボーイズ」という漫画がおもしろい。印刷会社の営業を主人公に、印刷会社でおこるさまざまなトラブルを漫画にしたものだが、業界人にとっては笑えると言うより、はっきり言って泣ける。業界あるある漫画として秀逸。是非、一読をお薦めする。

さて、その中にDTPのオペレーターが先祖返りをやらかして、会社中で徹夜するはめになるという場面があった。「やってるなあ、まだあるんだ」と懐かしく思った。

そうこの漫画で言う、先祖返りとは、一度校正で直したところが、また寸分違わず復活してくるという現象だ。たとえば、初校で間違いを指摘して、再校でその間違いが直っていることを確認したにも関わらず、三校では再校で指摘した間違いは直っているのに、初校で指摘した間違いが寸分違わず復活してくるという奴だ。その不気味なこと不気味なこと。気がつけばよいが、普通三校では再校の訂正だけを確認し、初校の間違いは確認することもないから、初校段階のものが世にでてしまう。これがおきると、もう印刷会社の営業は平謝りするしかない。

この現象は、校正段階で、初校、再校とそれぞれのファイルを残すことからおこる。初校ファイルを訂正して再校ファイルができるわけだが、三校の際、再校ファイルではなく初校ファイルに訂正を加えるとこの現象を起こす。校正のたびにファイルを上書きしていけばこの現象は起こさないはずだが、あとでクライアントから、「やっぱり元のままで行く」とか「前はどうなってたか調べて」というような依頼があるから現場も営業も残したがる。コンピュータではコピーを残すことは造作もないし、昨今のコンピュータの外部記憶容量(ハードディスクなど)は莫大なので、校正のデータぐらいは軽々とはいってしまう。だからとにかく過程も含めて全部残すわけだが、これが裏目に出る。

この現象が知られ出したのは印刷業界が初めてコンピュータに真っ正面から取り組んだ電算写植導入のころだ。活版や写植で育った営業や校正者にとってはとんでもなく奇怪な現象と思われたようで、当社ではこれを「校正ゾンビ」と呼んだ。誤植を殺しても殺しても正確に元のままの間違いが復活してくる、その現象があたかも校正の世界に徘徊するゾンビのようだったからだ。ただこのころは外部記憶容量は小さかったので、ファイルを意図的に残したというよりシステムが自動バックアップする機能をもっていてそのことを理解していなかったら生じたものだった。だから、いつのほどにかなくなった。・・・はずだった。

そうですか。まだまだやっているんだなあと漫画をみてほほえましく思っていたが、実はこの手の事故は形を変えて今でも結構おこっているのだ。たとえば毎年毎年、ほぼ同じ報告文書で昨年のものに上書きして今年の修正だけを記入していくというタイプの記事の場合、去年の原稿に修正上書きすべきところ、一昨年のものに修正上書きすると昨年の訂正がきれいさっぱり失われて、一昨年の物にすりかわってしまう。上にも書いたとおり、この手の間違いは発見しにくい。こうい場合の責任は校正見落としにあるのか、ゾンビファイルを使用した側にあるのか。これはもう争っても勝ち目はなかろう。

もちろん今では、どこが変化したか、余計なところを修正していないかを比べて、違っていたら警告を発するソフトというものも存在する。冒頭の先祖返りの例だと、再校と三校を比べて変化したところを検出すれば一発で見つかることになる。

それよりこの「いとしの印刷ボーイズ」に出てきた技が面白かった。立体視である。同じような図形を並べて、右目と左目で別々に見る。この時、脳はこの図形の違いを視差と認識し、それが立体であるように見る。従って、三校と再校ならべて立体視すれば、違っているところだけが立体視で浮かび上がる。私は一時立体視に凝ったことがあるので、立体視は得意だが、なるほどこれを校正に応用するというのは気づかなかった。こんどやってみよう。

縦書きの本質

3年ぶりにワシントンのNLMへ行ってきた。学術情報、特にオンラインジャーナルのXML規格であるJATSに関する会議JATSConへ参加するためだ。JATSConは3年ぶり、前回はとにかく日本語をJATSに載せたと言う事実だけを報告しにいったのだが、そのときの反応は私が期待したほどではなかった。XMLに関する技術的な発表が多い中、アジアの言語のJATS化といっても、アメリカの聴衆にしてみれば、何を言っているのかわからない、なにが画期的なのかわからないというのが正直なところだったようだ。

 ただ、その後、日本でJATSCon Asiaを開催したり、中国や韓国でもアジア言語のオンラインジャーナルに関するシンポジウムに参加したりしている間に、事の重要性が伝わったらしい。この界隈での知り合いが増えたせいもあるが、今回は結構発表前から声をかけられ、はじまる前には座長から3年前にも発表があって期待している旨のコメントがあった。

 今回のテーマは縦書きである。縦書きの論文をJATS化してオンラインジャーナルとして横書き掲載した経緯について発表した。縦書きについてはすでにCSS3やEPUB3でも可能となっているし、日本では今更というテーマでもあるが、JATSでは話が違う。JATSは文書の構造を重要視する規格で表現についてはあまり配慮しない。つまり、どのように画面上で表示されるかはあまり関心がない。画面上の表現は、デバイスによっていくらでも変わりうると考える。その点EPUBなどによるリフロー型の考えに近いが、より過激にデータベース志向といえる。

 もっとも、JATSもといった表現のためのタグがあるが、これはが表現以上の「意味」をもつからだ。たとえばで巻をあらわしたりで生物分類をあらわしたりする慣行があり、これは単なる表現ではなく構造上「意味」をもつ。

 では縦書きはどうなのか。縦書きと横書きで意味の違いがあるか、構造的に差異がでるか。これに答えられなければ縦書きは単なる文書表現の問題であり、JATSの規格には関係ないことになる。縦書きであろうと横書きであろうと、JATS XMLで表現された元の文書を縦書きで読みたければCSS3で縦書き表現して読めばいいし、横書きのままでよければ普通のオンラインジャーナルとして、理科系の論文と同じプラットホームで読めばいい。

 ただ、実際に縦書きをJATS化してオンラインジャーナルにしてみてわかったのは、それほど単純ではないということだ。

 まず、現在の日本では縦書き対応のオンラインジャーナルというものは存在しない。そもそも人文系論文をオンライン化しようという試みすら多くない。従って縦書き論文もJATS化して横書き表示せざるをえない。縦書きの横書き化だ。JATS的に言えば、縦書きであろうと横書きであろうと構造に変わりがないのなら、ここは自由に縦・横変換しうる。

 ここでただちに行き詰まるのは数字の問題である。縦書きの漢数字を横書き英数字に変換しなければならない。表現の問題だが、データベースとしても重要な問題だ。巻号ページという文書を特定するのに重要な情報は英数字でなくてはならない。

 だからといって一括置換で漢数字を英数字に置き換えるだけではおかしなことになる。自分の名前を「1郎」と表記されたら、一郎君は怒るだろうし、「念仏3昧」と書かれたら、仏教関係者はその文章を読むのを辞めてしまう。

 これは一例だが、縦書きと横書きには本質的な構造的差異がある。だからこそ、「縦書き」をJATSの中でも記述できるようにして欲しい。とまあこういう主張を行ったのだが、質疑応答がなかなか聞き取れず、反応は正直よくわからない。ただ、文化の多様性については敏感なお国柄のこと、一顧だにされないという感じではなく、むしろ「具体的提案が欲しい」という感じだった。引き続きアジアからは声をあげ続けていくしかなさそうだ。

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転向しました

白状しなければならない。

私は、出版印刷いわゆる頁物の印刷屋として、電子書籍やオンラインジャーナルに興味をしめしつつも、「最後は紙の方が読みやすい」と言い続けてきた。しかし、もうこの私ですら「紙よりも画面」に転向せざるをえないようだ。

実は、今回ショッキングな体験をした。紙の本を読んでも、頭に入らなくなってきているのだ。よく、昔ながらの本好きが「紙の本でないと頭には入ってこない。読みにくい」というのを聞いていた。もちろん私もそうだった。しかし、先日、久々に読みたい記事があって、週刊雑誌を買って読んだのだが、これになにか違和感を感じるのだ。段組みがあって、写真の食い込みがあってという、伝統的な雑誌組版に煩わしさを感じて、頭に入ってこない。

スマホとタブレットが情報収集の中心になって久しい。いまや週刊雑誌などというものは今回のような例外をのぞけば、まったくと言っていいほど読まなくなった。私の場合、そのきっかけは東日本大震災だった。地震や原発事故に関する不愉快な記事が増えたこともあって、段々週刊雑誌を読まなくなったのだ。かわりにスマホやタブレットで、ネットを渉猟し、好きな記事を読むことが増えた。紙の新聞も、朝、紙版を読む前にタブレットで新聞のサイトを見て、面白そうな記事はあらかた読んでしまうので、ほとんど読まなくなった。紙より画面で読むことに慣れてしまうと、むしろ紙に違和感を感じるようになるのだ。

つまり、「紙の本でないと頭にはいってこない。読みにくい」というのは、紙の本自体の優れた特質ではなく、昔から紙の本に慣れ親しんでいたからそのように思えているにすぎないのだ。そして、その「慣れ」とは還暦をすぎた私が数年でその習慣を変えてしまう程度の「慣れ」でしかない。以前からこれからの子供達は本より先にタブレットやPCに触れるので、本より画面に慣れ親しむようになるだろうとは言われていた。しかし、この私のような本にどっぷり浸って、成長し、本とともに社会生活を送ってきたような人間でさえ画面に慣れると紙の方に違和感をもつようになってしまうのだ。

これが社会全般の傾向であることをつくづく思い知らされるのは電車の中だ。紙の本や雑誌を見ている人が、ほとんどいなくなった。みなさんスマホとにらめっこしている。5年ぐらい前までは若い人はスマホばかり見ていても、中年以上は本や雑誌というような棲み分けがあったが、今やどの年代もスマホを見ている。逆に、本を読んでいる人を見ると「珍しい」と思うようになった。

もちろん、スマホの場合、普及したのは画面で読むことにみなが慣れてきた事とともに、その利便性が本より遙かに勝るからだろう。世界中のどんな情報にも一瞬でアクセスでき、テレビにもゲーム機にもなるスマホは確かに便利なことこの上なく、一度手にすれば離せなくなってしまう。

この先、どうなるか。ミスタ-電子書籍の植村さんが言うように、自動車が発明されて普及しても、馬車は滅びていない。紙の本も滅びない。ただ、滅びないというだけで、圧倒的に数が減れば、産業としての意味を喪失する。

漫画はすでに売上ベースで電子出版が紙を上回ったという。私も漫画単行本いわゆるコミックスには子供の頃から親しみ続け、何十巻にもなる単行本を本箱に並べるのは楽しみだった。が、もう今の子供にその習慣はない。単行本を持っておかないと、読めなくなってしまうという恐れを感じないのだ。いつでも、どこでもどんな本でもネットで読める。しかも最近問題になっているように海賊版サイトなら、只で。

この時代にあって、出版印刷業者はどういう戦略があるのか。それは今後の出版印刷市場の縮小速度いかんにも関わってくるが、存在する限りあらたな工夫で生き続けるというのが、大部分の業者の選択のようだ。もしくは、商業印刷やパッケージ印刷に活路をみいだすか、オンラインビジネスなど、大胆に新たな業態へ変革するか。永遠に悩み続ける2018年。

デジタルで木版発見

 私の経営する中西印刷は明治の非常に早い時期に京都の地に活版印刷を導入し、その後活版印刷の会社として百年以上の歴史がある。この件については、本誌の印刷史関係の記事でも何度か紹介していただいている。

 実はさらに活版以前に、木版の時代があったというのが口伝としてあった。しかし、その証拠となる木版時代の本というのはこれまで発見されていなかった。木版・活版・平版・デジタルという4つの印刷形式を駆け抜けた会社という当社のキャッチフレーズには実のところ証拠がなかったのだ。

 そのことを気にして、亡くなった伯父は京都中の古本屋から明治初期の書籍をかたっぱしから取りよせて、中西製木版本を探したが、結局、亡くなるまでに中西製木版本を発見することはなかった。

 ところが木版による出版物が発見できたのである。それも国立国会図書館デジタルコレクションでなのだ。

 国立国会図書館デジタルコレクションは書籍の全ページの画像を専用デジタルカメラで撮影し、データベースとして公開しているものである。実は、十年ほど前このデジタルコレクションの前身近代デジタルライブラリについて、当社に照会がきたことがある。著作権関係の確認だった。百年以上前に発行された本の出版社にいちいち著作権照会をおこなっていたわけで、当時、その誠意あふれる姿勢に感心したものだ。実際、近代デジタルライブラリでもっとも苦労したのはこの著作権照会だったという。

 閑話休題。そういう照会があったので、近代デジタルライブラリが公開になった頃には当社の古い屋号で検索をかけ、何冊かの掲載があることの確認はしていた。でもほとんどは明治期の活版印刷で当時の活版事情を知るには役に立ったが、当社としてはそれが宣伝材料になるわけでもなく、まさにこのコラムの題名のごとくITに奮闘していた私はそのまま存在すら忘れていた。

 先日、当社に保存している「産業遺産」である活版設備の見学をしたいという依頼があり、当社に研究者の方々がお見えになることになった。そこでなにか明治期のよい活版資料がないかと思いあたって探したのが、国立国会図書館デジタルコレクションだった。それで古い屋号で検索をかけ適当な物を見つけた。「日本畧史字解」。辞書のようなものだということは推察できた。明治10年刊行。これはもっとも古い活版資料かもしれないという期待をもってファイルを開けてみた。

「ん?」

 活版にしては字に統一性がない。しかも当時としても字が太い。これはもしや木版では。明治10年という時期も符合する。最後のページまで繰ってみたが、罫線が途切れていない事や字列が不揃いであったり、間違いなく木版である。

 そして最後の奥付のページまで繰っていった。そこには「出版人 中西佐登」とあった。あまりご先祖として聞いたことがない人だったが、系図を見ると、どうやら創業者「嘉助」の娘であるらしい。どうして娘の名を出版人にしたのかはわからないが、住所表記に「嘉助同居」とあり、確定。

 中西印刷に木版時代は確かにあった。

 国立国会図書館デジタルコレクションにあるということは、以前から国立国会図書館にあったことになる。伯父はそのことを知らず、古本屋をあたっていた。伯父の世代では図書館で発見するという発想がなかったのだろう。

 木版とデジタルがこうしてつながった。国会図書館デジタルコレクションは昨年の発足である。そして今、各地に古文書のデジタルアーカイブができている。もう研究のために図書館の貴重本を拝み倒して借りる時代ではなく、デジタルでいくらでも参照できる時代になった。素人の私にして、すぐに調べられたわけだから、これからは出版史・印刷史の大発見があいつぐことだろう。

本件NDL資料のため、DOIが扶養されています。
https://doi.org/10.11501/771219

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コンベンショナル印刷

印刷方式の分類については、昔から変わらない。凸版、凹版、平版、孔版の4つである。20年前ぐらいから、これに無版印刷というのが付け加わって5種類になった。無版印刷というのは版がないということだから、名称としては弱い。コピー機の延長とも言えるこれをなんと呼ぶかは本欄でも何度も話題にしてきた。よく言われてきたのは、「オンデマンド印刷」だが、これは印刷の方式ではなく機能から来た名称なので、「プロダクションプリンタ」と言う言葉を使う人もいたし、私は「デジタル印刷」というのを推奨してきた。

しかしデジタル印刷はこれはこれで広い概念である。今やデジタル印刷と呼ぶ物の中にも、固体トナーを使う電子写真方式にくわえ、液体トナーを使う方式も増えてきた。さらに最近では次世代印刷方式としてインクジェットも存在感を増している。印刷の技法として考えれば、電子写真とインクジェットでは印字方式がまるで異なる。凸版と平版の差ぐらいはあるといってもいい。これをデジタル印刷とひとくくりにするのはもはや無理がある。

そうすると、印刷の分類は凸版、凹版、平版、孔版、電子写真、インクジェットということになるだろうか。しかし、まだ感熱方式もあるし、最近では某ナノグラフイック印刷なんていうのもある。分類はどんどん拡がっていく。データを印刷機で受け取ってそのまま印刷する方式全体をデジタル印刷とひとまとめの定義でもよさそうな気がする。

結局デジタル印刷をどこに位置づけるか悩むところだが、ここに来て、印刷方式の分類を根本的に変えるものにお目にかかった。凸版、凹版、平版、孔版をまとめてコンベンショナル印刷とし、電子写真、インクジェット等をまとめてノンインパクト印刷とまとめてしまうというものだ。なるほどと膝を打った。これは意外にいいかもしれない。ノンインパクト印刷という言葉が正しいかどうかはわからないが、この分類は今後の印刷作業工程や営業の実体にもあっている。

この定義を再解釈すると、コンピュータ登場以前からあり、コンピュータがなくても印字できるのが凸版、凹版、平版、孔版のコンベンショナル印刷。コンピュータとともに発展し、コンピュータがなければ駆動することができないのがノンインパクト印刷ともいえそうだ。むしろ、このままノンインパクト印刷をデジタル印刷と言い換えた方がいいかもしれない。

それでは以前の定義と変わらないと思われるかもしれないが、そうではない。以前の定義は凸版、凹版、平版、孔版、デジタル印刷と並列に5分類だったが、この新しい分け方だと、コンベンショナル印刷とデジタル印刷にまず2分類し、コンベンショナル印刷の下に、凸版、凹版、平版、孔版が並び、デジタル印刷の下に電子写真、インクジェットが並ぶ。

もちろん分類などというのはあとづけでいくらでも変わりうる。分類の仕方にもよるし、どう分類しても分類しきれないものもでてくる。1990年代に流行ったCTP とオフセット印刷機を合体した有版オフセット方式オンデマンド印刷機はこの分類でも分類できない。いわゆるコウモリ分類状態が生じるのだ。

それでも分類には意味がある。知識を体系づけておかないと、新入社員や顧客に説明しづらい。印刷への理解を得やすくするためになんらかの分類は必要だ。

いずれにせよ、コンベンショナル印刷とは、よく言ってくれたものだと思う。conventionalとは辞書的には「慣習の、伝統の、陳腐な、従来型の」の意味を持つ英語の形容詞である。ニュアンス的には従来からあり伝統的だが古くさいということになろうか。今までの印刷技術はすべてコンベンショナルにひとくくりかと思うと、やはり感慨深い。電子の旗を降り続けた私もスタートは活版だった。私の印刷人人生ももうコンベンショナルのかなたということになるわけだ。印刷はどこへ行くのか?

ORCIDを知っていますか

これはもしかしたら破壊的な影響を将来にもたらすかもしれない。ORCIDである。

ORCID(Open Research and Contributor Identifier)のことはこの2・3年耳にしたことはあったがそれほど気にしていなかった。研究者毎に個人識別番号を与えるというものだが、よくあるプロフィールサイトのひとつだぐらいに思っていたのだ。

研究者を同定(Identify)するのは業績評価において切実な問題だ。たとえば、中西秀彦を国立国会図書館のサイトで検索すると私の本やあちこちで書いた雑誌記事がヒットする。もちろん印刷雑誌の記事もヒットする。ところが中に小児科の医学記事もヒットする。全然なんの脈絡もなく、「新生児疾患」の論文が「本は電子書籍の夢を見るか」や「オンデマンド出版論」に混じってくる。もちろん、私がこの手の論文を書くわけがないわけで、同姓同名の小児科のお医者さんがいるからだ。

こうした同姓同名問題は検索エンジンの最大欠点とも言われてきた。中西秀彦はそんなに多いとは思えない名だし、私のような出版論と医学分野では混同する人も要るとは思えないが、似た領域、よくある名前だと混同は大問題となる。ノーベル賞受賞者に田中耕一という人がいる。この名で検索するとおそらく、ご本人と思われる化学関係の著作ばかりでなく医学、社会学などの著作があがってくる。よくある名前だから、これは同姓同名の別人の著作だろう。これはノーベル賞受賞者ご本人より同名の研究者の方が迷惑だろう。自分が有名研究者に紛れてしまう。

この同姓同名混同問題は中国や韓国ではさらに深刻だ。王さんや金さんばかりだからだ。しかも、世界の趨勢は英語化である。最先端の研究は英語でださないと国際的には評価されにくい。そしてまたこの評価の名前が問題になる。今や研究論文の評価はどれだけ引用されたか言及されたかが勝負だからだ。同姓同名、しかも英語だと中西も仲西も同じになってしまう。この中での引用評価となってしまうとなると、これはもう評価自体の信頼性に関わる。

前置きが長くなった。ORCIDはこの問題に終止符を打った。研究者に一律に番号をふったからだ。これがあればもう同姓同名の混同問題はないしコンピュータでの検索やリンクもすさまじく早い。むろん、登録は任意である。嫌ならしなくてもよい。

私も韓国の雑誌に投稿したときに書くように言われて取得したがそれまでその重要性はわからなかった。さすが韓国ではこのORCIDの記載義務づけも早いようだ。例の金とさん問題があるからだろう。

ここからだ。ORCIDのすさまじさを実感したのは、先日ORCIDのサイトでなにげなく自分に関する記載を調べていた時だ。驚いたことに30年以上前に書いた私の本来の選考である心理学の論文が記載されていたのである。ORCIDで同定されて自動的に記載されたものらしい。これはORCIDの仕組みが公開されていて、どんどんORCIDのもとにその人に関する情報が集まる仕組みになっているからだ。たとえば出版社が加盟すると、その出版社の雑誌に掲載されるとその記事の著者のORCIDに自動的につながっていく。

この仕組みは著作だけでなく所属情報などでもいえる。研究者は勤め先が頻繁に変わるが、勤め先の大学などが、ORCIDに加盟していれば、その所属情報も自動的に変わっていく。すると、その人が入会している学会や協会の所属情報も自動的に変わることになる。

これは大変な仕組みである。ORCIDに登録すると、すべての自分に関する情報が識別され、集まってくる。ORCIDはすごい勢いで普及しているといわれるがさもあらん。これとAIが組み合わさったり一般人にまで拡大すると個人情報と個人評価はまったく新しい段階に突入する。社会へのインパクトは予想すらできない。

見学会の定量評価

京都府の印刷工業組合で、デザイン系大学の学生さんの会社見学会を開催した。人出不足の昨今、この手の催しはよく行われてはいる。この手の催しは、行われたという事実のみで、効果については検証が行われていない。

これだけでは主催する側の自己満足に過ぎないのでないか。そこはIT経営者としてはもう一歩踏み込んでみたい。

今回、この見学会の効果を定量的に計ってみることを提案し採用された。手法はSD法によるアンケートである。それも見学前と見学後に同じアンケートを実施して、その態度変容を測るということをおこなってみたのだ。業界のアンケートというと、「感想を聞く」という形式のものが多いが、これでは本当の効果は計れない。見学会などを催すと、お世辞や御礼の意味もあって、みんなよいことを書くからである。これはずっと、私が疑問に思い続け、改善したいと思ってきたことだった。

アンケートのSD法とは特段変わったことではない。アンケートを一度でも経験した人ならご存じのことと思う。「その通りだと思う、おおむねそう思う、どちらともいえない、あまりそう思えない、まったくそう思えない」のような段階をつけて質問に答えてもらう形式だ。今回は5段階として、事業の効果を測定するため、事前・事後にまったく同じ質問を行った。質問は、

1. 印刷業は先進的産業である
2. 印刷は本や雑誌を作るだけの産業である
3. デザインやDTPも印刷の仕事である
4. 大手より中小の方がやりがいがある
5. 印刷業はこれからも発展す
6. 印刷業界に勤めてみたい  
7. 印刷機械オペレーターをやってみたい
8. 印刷や印刷業のことをもっと知りたい

の8項目。これ以外に、従来型の定性的質問「授業の感想をお聞かせください」
「印刷業についての感想をお聞かせください」を加えている。

事前質問は、大学で本見学会の3週間前に行った。この時点ではなんのレクチャーも行わず、学生さんの印刷業界に対するありのままの印象を聞いた。見学会それ自体は組合の会社でDTPと印刷現場の説明と見学を行った。この内容については京都府印刷工業組合から報告書が出ると思う。

定量測定の結果は劇的で見事に効果がとらえられた。

「印刷業は先進的産業である」という設問に対しては数多くの学生が「そう思う」へと変化した。事前では「そうは思えない」という回答も散見されたが、事後ではゼロであり、また事前では「おおむねそう思う」というような消極的肯定が多かったが、「その通りと思う」という積極的肯定へ変化している。百聞は一見に如かず。実際にコンピュータの並ぶDTP現場やハイテク機構のついた4色機を見た学生達の印象は劇的に変化したと言える。

「デザインやDTPも印刷の仕事である」「 印刷業はこれからも発展する」も上記質問ほどではないがかなり印象が改善した。また「印刷機械オペレーターをやってみたい」にも改善が見られた。これは機械現場の人手不足に悩む現場としては大いに力づけられる内容である。反面「 大手より中小の方がやりがいがある」はさほど変化しなかった。

これらの結果を点数化し変化量を報告したわけだが、私はそれに「大成功以外の評価は思いつかない」と書いた。印刷組合というところで長年お手伝いをさせていただいてきたが、こんな評価を書いたことは初めてだった。ともすれば縮小する市場のなか、何をやっても成果がでないということに慣れてすらいた。適切な活動と評価を行えば結果は出るのだ。

もちろん、数字のお遊びという批判も出るだろうし、統計的検定も必要だろう。でも今後の事業のあり方に示唆を与えられたと自負している。

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