紙の復権

 今年の全印工連印刷メディア協議会のテーマは「紙の復権」だった。このテーマだからか、来場者が多かった。すくなくとも私の所属している京都工組からの参加は例年の倍にはなっている。やはり印刷会社は「紙の復権」をなんといっても待ち望んでいるのだ。業態変革も今の時代、確かに正しいのだが、紙を扱って印刷機をまわすことを生業にしてきたほとんどの印刷業者にとって、コアの印刷ビジネスから業態変革することは至難の業だ。

 今回の「紙の復権」に関する講演をヒントに私なりに復権の方法を考えた。ひとつは、紙に対するあらぬ誤解の払拭だ。この誤解がいかにひどいかはISO14001などの環境規格をとろうとしたらすぐわかる。まず環境コンサルタントと称する人が開口一番、印刷屋に向かって「紙を減らしましょう」なのだから。紙を使うことは森林を破壊し、大量の廃棄物を産み出す悪の産業だと言わんばかりなのだ。はたしてわれわれは必要悪としてやむなく紙の本を作っているのだろうか。これはない。

 紙だけが悪者でないのは実際の統計を見て欲しい。つけっぱなしのサーバーの方がよほど電気を食う。森林が破壊されるというのも誤解である。実際に伐採された木のうちパルプになるのは10%程度だし、紙はリサイクル比率が非常に高い。また製紙会社は積極的な植林活動を通じて森の育成も行ってきている。

 次に紙の魅力の再発見である。紙は五感をフルに刺激する媒体でもある。電子書籍は視覚と一部音声だけが頼りだが、紙は「紙の手触り」「インキの匂い」など視覚聴覚以外の要素に訴えることが可能だ。真新しい教科書の「インキの匂い」は幾多の文学作品で新学期の清新なイメージとして語り継がれているではないか。「味」はいまのところ提供できていないが、紙に味の要素を加え、舐めて楽しむ本というのもこれからの技術だとできなくはない。五感を使わせる広告媒体として、紙はまだまだ可能性がある。

 そして今「紙の復権」になくてならないのはデジタルとの共同である。いくら、紙の利点を述べたとしてもインターネットの検索性や速報性に紙は逆立ちしたって適わない。もはやデジタルの時代が紙の時代へと逆戻りすることはない。デジタルはまだこれから発展を続けていくことだろうし、情報伝達の多くの部分をインターネットネットや電子書籍などのデジタル機器が担っていくことになるのはこれはもう否定することはできない。ただ、デジタルにはデジタルの良さがあるように、紙には紙の良さがある。先にも述べたように五感をフルに行かせる媒体としての紙はインターネットには真似できまい。ネットと紙を場合に応じて使い分けるというのは今までもよく言われてきた。しかし両者を使い分けるのではなく共同すればさらに発展が望めるのではないか。AR技術などはそのひとつとして注目されているが、そんな大げさなことを考えなくても、地道に上製本を作り込み、インターネットで売りさばき、SNSで営業活動を行うということだっていいと思う。

 紙の本とデジタル媒体の最大の差は影響する時間の長さだ。ツイッターはつぶやいて1時間、フェイスブックは1日、ブログでも1週間たてば、もう反響はほとんどなくなる。ところが、本は1ヶ月目からが勝負、1年、2年と反響が続き、グーテンベルグらのインキュナブラが実証しているように500年間影響を持ち続ける。反面デジタルの伝播力は紙に比べ猛烈に速い。紙は追いつけない。

 伝播速度と情報の持続、この特性に応じてデジタルと紙を組み合わせることに新たなビジネスチャンスがありそうだ。そここそが「紙の復権」のスイートスポット。どうやってデジタルと紙を組み合わせるのかを問うことこそ、これからの印刷人の勝負どころだ。

 「紙の復権」、それは青い鳥のようにはるか遠いところでなく、すぐ近くにいるのかもしれない。

4年目のパソコン

 私が、この原稿を書いているのはデスクトップパソコンである。私はキーボードは106/109フルキーでないと受け付けないし、周辺機器もいっぱいぶらさげるから、どうしてもデスクトップということにならざるをえないのだ。実は、今使っているのは9代目である。一番最初は就職してまもなく買ったNEC PC8801でもう30年前のことだ。パソコンの歴史もかくも長くなった。

 さて30年で9代目だから、ほぼ3年に一度買い換えていることになる。1980年代は私自身、若くて金もなかったし、パソコンの進化もそれほど早くなかったから、周辺機器を買い足しながらでも5年ぐらいは使えた。これが1990年代以後は、ハード・ソフトとも爆発的に進化して、3年もたたずに陳腐化して買い換えざるをえなくなるということを繰り返すことになる。ハードとしては使えても、ソフトがバージョンアップするたびに、猛烈にCPUパワーやメモリを要求して買い換えざるをえなくなるのだ。さまざまなツールや周辺機器を買い足すことで、対応することも可能だったが、パソコンの価格破壊が猛烈に進むようになって、周辺機器やメモリで場当たり的に対処するより買い換える方が安くなった。

 そして買い換えて後悔したことはなかった。パソコンは3年の間に桁違いに進化していて、便利に速くなっていたのだ。パソコン雑誌風に言うと「サクサク動く」のである。古いパソコンを苦心惨憺、ソフトが重い、たちあがりが遅いと愚痴をこぼしながら使うより、買い換えた方がよほど精神衛生上もよいということになる。

 さて、今使っているパソコンだが、気がつくと買って3年を超えていた。これは最近ではなかったことだ。つまり3年たっても不満を感じないということになる。こんなことはそれこそ30年ぶりかもしれない。もちろん。この間にソフトもバージョンアップしているし、新しいパソコンはさらに猛烈な速度、大メモリ容量を誇っている。今やハードディスクはTB(テラバイト)が最低単位だ。

 それでもそんな超高速、大容量が必要ないのである。たとえば、デジカメ画像でも、最新機種では2000万画素とか3000万画素とか謳っているが、ポスターに引き延ばすのでもない限り、そんなものすごい画素数は必要ない。従って、容量もそんなに要らない。ワープロも本1冊1ファイルに収めても支障なく動くし、表計算なんて数万行などという非現実的な表を作ってもまったく問題ない。動作の重いソフトの代表だったDTPも、特にストレスを感じなくなって久しい。結局、3年前のパソコンで充分役に立つのである。

 それより、こちらが年をとったせいもあるが新しいパソコンを買って、ソフトの設定や周辺機器のセッティングを一からやり直す方がおっくうに感じられる。デスクトップ画面に散らばった折々の必要に応じてインストールしてきたソフトを全部をもう一度インストールし直すことを考えると気が遠くなりそうだ。

 もうパソコンはある意味で行くところまでいった感がある。もちろん、発展の余地がないとは言わない。まだまだ速く大容量になるだろう。しかしそうなっても使いようがない。自動車は何十年も前に時速100キロを出せるようになったし、今なら200キロ、300キロ出る車を作ることは造作もない。だが、道路事情が追いついてこない。従って、自動車は基本的に進化せず、GPSのような周辺機器や乗り心地のような付帯性能で引き比べるしかなくなった。それと同じように、パソコンももはや普通の人間が普通に使う限り、必要のない性能の域にまで達してしまったのではないか。

 パソコンはこれから、性能をあげるより、値段が安くなり、薄くなり、軽くなる方向に向かう。現実にタブレットPCとはその方向性の延長にあらわれてきているものだと私は考えている。4年目のパソコンは最後の旧世代パソコンということなのかもしれない。 

 本を処分する

 私は本を買うのが好きだ。もちろん読むかどうかは別としての話だが、蔵書は膨れあがる一方ということになる。本が本棚からあふれるたびに本棚を買い増していったが、日本の家屋事情ではすぐに限界となり、数年前から段ボール箱に詰めて、納戸に積みあげている。しかしこれでは所持している意味がないことにすぐ気づいた。段ボールにいれてしまうと、読みたいときにとりだせない。資料としては役にたたないのだ。しかも何をどこの箱にいれたかを忘れてしまう。本は本棚に並べてあれば、本を探す時、なにげなく他の本の背表紙を眺めているわけで、どこにどの本があるかの記憶があらたにされる。つまりは本棚こそは人間書誌データベースの源でもあるのだ。これがない以上、段ボールづめは意味がない。

 古本屋に来てもらうことにした。馴染みの古本屋があるような愛書家ではないので、ネットから古本買い取り屋をさがす。新刊のネット書店が隆盛であるように、古本のネットワークも充実している。ネット買い取り屋は連絡をとるとすぐに来てくれた。

 ところが処分すべき本を積みあげて古本屋に見せると、古本屋がためいきをついた。ほとんどがバーコードのついていない古い本だからだ。バーコードがあると、それを読み取って自動的に買い取り価格を決めていくようなソフトがあるらしい。

 それにしても何十年も大事にとっておいた本である。しかもほとんどがいかめしい上製本。かなりの価格になるだろうと期待していたが、実際には二束三文だった。古本屋としては売れる保証があるわけでもなし、これから何年も在庫として保管しておかなければならないこともあるだろうから、しかたがない。むしろ、実際に必要としている人へ安い値段で引き継がれた方が世の役にたつというものだとあきらめることにした。

 参考のためにと、今回は売りに出さなかったが、母から受け継ぎ、私が読み、子ども達も親しんだ日本文学全集全揃いの買い取り価格を聞いてみた。残念なことに「買い取れない」そうである。もし持ち帰るとしたら引取料がいるとのこと。もう文学全集など、まったく価値がないのだ。電子書籍なら名作文学など青空文庫のようにいくらでも只で読める時代だからいたしかたないだろう。同じ意味で、百科事典も引き取れないということだった。私もWikpediaばかり使って、百科事典など開けもしなくなったのだから、これも無理はない。しかし、印刷屋としてはこの現状はいささか寂しい物がある。本を大事にしてもらえばこそ、印刷屋が社会の中で役に立っていると実感できるのだから。

 結局、蔵書というやつ、今は資産として、持っていてもしかたがないし、飾り物にもならない。存在意義はやはり人間データベースの源としてのみだ。本の背表紙を眺め、ときどき意味もなく開いては中の図表を記憶しておく。そうすることで、自分だけの資料としての価値が出るということだ。自分が読んだ本と、その記憶というのはその人に固有なもので、それでこそ、蔵書は当人にしか意味を持たない。もっとも、こういう蔵書の使い方も私の世代までかもしれない。図書館の資料ネットワークが充実し、電子書籍がどこでも手に入れば、まさしく記憶がわりにコンピュータデータベースが使えるのだから。

 となると、これから、紙の本の存在意義とはなんなのだ。件の古本屋が「どうしても欲しい。売ってはもらえないか」と言った本がある。山止たつひこ名義の「こちら葛飾区亀有公園前派出所」である。高校生の時に買って、そのまま今まで持ち続けた漫画だ。だから保存状態もいい。山止たつひことはのちの秋本治、デビュー当時人気絶頂の山上たつひこをもじってこう名乗っていた。その後の版ではすべて秋本治名義に変更したから、山止たつひこ名義の「こち亀」は非常に貴重なのだそうだ。もはや紙の本には骨董としての価値しかないということなのかな。

日本語オンラインジャーナルを目指して

  オンラインジャーナルが普及しだして10年になる。オンラインジャーナルはインターネットで論文などの学術情報を提供するもので、特に欧米での普及が著しい。引用文献がハイパーリンクで縦横に関連づけられている上に、キーワード検索の提供で世界中でどんな研究が行われているか即座に探し出すことができる。逆に言うと、オンラインにない論文は見つけ出されない。読まれないとになる。欧米の出版社の世界では「その論文がネットになければそれは存在しない」とまで言われている。ここで「存在しないと同じだ」というような表現ではなく、「存在しない("does not exist")」と言い切っていることに注目したい。結果として、欧米ではオンラインジャーナル化が急速に進んだ。「ネットになければない」のだから、欧米の学会はこぞって電子化を進めた。日本でも学術雑誌のオンライン化は理系英文誌を中心に進んできた。オンラインなければ世界で戦えないのだから当然だろう。
 これに対し、日本語雑誌のオンラインジャーナル化は進んでいなかった。あったとしても、印刷された雑誌と同じ誌面のPDFをネットに載せる程度だった。しかしPDFで論文をネットに掲載するというのは国際的に言うと、ジャーナルアーカイブであってオンラインジャーナルとは言えない。欧米のオンラインジャーナルは原則HTMLであって、紙の雑誌を画面でも読めるというだけではなく、画面で読みやすいように特化している。例えば、ページという概念がない。一論文は一ファイルであって、下にスクロールしながら読んでいく。またリンクも豊富に提供されていたり、図表も通常はサムネイル表示で必要なときだけ大きくして見せる。オンラインジャーナルは紙の雑誌とは別物なのである。
 活版で作られたような電子ファイルが存在しない頃の雑誌を紙からスキャニングしてPDFアーカイビングするのはそれなりに意味がある。だが、DTPなどで電子的に作られている雑誌までPDFによるアーカイビングで事足れりとしている日本の現状は国際的に見ると非常に遅れた感じがする。なぜなのだろうか。
 ひとつは縦書きのせいだ。縦書きを前提として書かれた論文を横書きが前提の画面で見るのは違和感がある。ただ、確かにこれも重要な理由だろうが、理系誌などは日本語雑誌でも元来、横書きなのだからこれだが理由ではない。むしろオンライン上での蓄積の問題だろう。オンラインジャーナルの最大の利点は相互リンクであるが、これはリンク先が蓄積されていなければメリットがない。リンク先がないのでリンク元たる雑誌のHTML化が進まない、リンク元がないのでリンク先も増えないという総すくみの状態になってしまっているのだ。
 もうひとつ日本語オンラインジャーナルにふさわしい規格が整備されてこなかったということがある。各雑誌がばらばらにHTML化を進めても費用がかかるばかりだが、ある程度共通の規格があれば、その規格を元にしたツールソフト類も整備されるだろうし、サイトを標準化することでコストも下げられる。欧米ではNLM-DTDのようなデファクトスタンダードが早くからあったが、日本ではそのようなものは存在していなかった。必要性がなかったということもあるが、日本語の特性から英文よりはるかに標準化がむずかしいこともある。
 しかし、もはや遅れをとっている場合ではない。日本のオンラインジャーナルの牙城たるJ-STAGEでは、2012年4月以後、全部のファイルをXMLに統一することを発表した。いずれは日本語雑誌も含めて、日本のあらゆる雑誌をHTMLオンラインジャーナル化するという含みだ。また、国際的にもNLM-DTDが日本語も含めた多言語DTDのJATSへと進化した。時は満てり、今年は日本語オンラインジャーナルがブレークしそうだ。

「学術出版の技術変遷論考 活版からDTPまで」

Ronkoua5s

新著です。
今回は活字からDTPまでの印刷会社の変遷を学術印刷の動向に絞って記述。
A5上製 450ページ という大作になってしまいました。ちょっと高いですが、是非お買い上げください。

印刷学会出版部刊 6800円+税

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電子書籍と明朝体

 電子書籍は英語圏の急速な普及に比べて、日本語の世界ではもうひとつ伸び悩んでいる。原因については出版社の抵抗とか、再販制度の功罪とかさまざまに取りざたされているが、印刷業界からはひとこと言っておきたい。やはり、画面における文字の問題だと。今の電子書籍画面では文字が悪い。

 英語では画面の文字の悪さはそれほど目立たないが、それは当たり前で、ラテンアルファベットと漢字の複雑さの違いからもこれは明白だ。漢字の方が圧倒的に画数が多い。これは10画20画がざらにある漢字に比べてラテン文字大文字の画数を数えあげててみればすぐにわかる。CやI、それにOは一画だし、DやMにしても2画、もっとも画数の多いのはEで、それでも4画である。ということはアルファベットに比べて漢字一字の中に引かれている線がはるかに多いことになる。もちろん、漢字はやや大きい文字で印刷されることになるが、それでも漢字の線密度が濃いことにかわりない。

 同じ面積で線の数を多く引こうと思えば、線を細くするしかない。しかも日本語の中でもっとも多用される明朝体は、縦に比べて横線が細い。この明朝の横線を美しく表現するためには、かなりの精細さが必要になる。解像度の低いディスプレイでは明朝体ではなくゴシック体しか表現できないのはこのためだ。現実に私が原稿を書いているこのワープロでも画面表現はゴシックである。

 厄介なのは、明朝の横線を表現するために、そのもっとも細いところに等しい解像度があれば良いのではない。字のバランスを適切に表現するためには、明朝最細線よりはるかに細かい解像度がいる。これはデジタル文字の性質からどうしてもそうならざるをえないのだ。ドット境界が重なった場合どうなるかを考えてもらいたい。ドットより細かい線は絶対に引けないわけだから、この場合、境界にあるどちらか片方のドットで表現する、つまり字のバランスを崩すか、両方のドットでつまり線を太く表現するしかない。

 この明朝の横線問題は、印刷にデジタル技術が導入されて以来、プリンタでもディスプレイでも問題であり続けた。プロ用のセッターやCTPで1200DPIや2400DPIといったとんでもない解像度を要求するのは、カラー写真などの階調表現を担保するとともに、美しいフォントバランスを表現するためといっても過言ではない。

 ラテンアルファベットでは画数が少ないこともあり、元々ここまでの解像度がなくてもそこそこ綺麗な文字表現が出来る。だから解像度がそれほど高くない段階でも商品として成立しやすい。ワープロでもDTPでも、欧米での普及は日本での普及より数年早かった。日本語組版問題の解決やフォントの作成に数年かかるからともいえるが、私はこの解像度の問題が大きいのではないかと思っている。日本語の表現が充分になるまでにデバイスの解像度があがるのに欧米の普及からさらに数年を要するのだ。

 そして電子書籍だ。欧米の機器の標準をそのまま持ち込んでも無理なのがここでもわかると思う。確かに、現在の電子書籍の解像度でも文字は読めなくはない。ゴシックでは充分かもしれない。しかし、今の電子書籍の画面で要求されるのは美しい明朝体表現だ。書籍にゴシックでなくて、明朝が好まれるのは、それが読みやすいからだ。明朝に対する慣れだけではない。欧米でもセリフ系の文字は縦が太くて、横が細い。それが人間の目にとって認識しやすく自然なのだ。だから明朝が正しく表現できないと書籍の代替とはならない。それはデバイスが液晶か電子ペーパーかという問題ではない。

 逆に明朝が綺麗に表現できるデバイスが登場したとき、電子書籍は日本でも普及期にはいるという結論になってしまう。これは意外に早いかもしれない。どうします?


IVSで漢字コード問題は終わるか

(この問題、現在のシステムでは表現しきれないので、CIDをふっておきます。)

 印刷会社にとって厄介な名字というのがいくつかある。いや誤解しないでいただきたい。個々の個人についての話ではない。あくまで字としての名字のことだ。いくつかあるが、一番よくお目にかかって、処理に難渋するのが、渡辺さんである。

 渡辺は名字の中でも5指にはいる多い名字なのに渡辺の「辺」にやたらに異体字が多いのである。渡邉(CID6930)さんと渡邊(CID6929)さんぐらいならまだしも、一点しんにゅうの渡邉(CID14241)でなきゃ気が済まない人もいる。となると当然渡邉(CID6929)さんも登場することになる。田辺さんも同じく厄介なのだが、なにせ渡辺さんは人数が多く、その分異体バリエーションも多岐にわたる。

 印刷に使う文字は、常用漢字とか、JIS漢字に限定してくれれば楽なのだろうが、一般名詞はともかく人名は許してもらえない。不思議なことに、集まった原稿の中で偉い人の名字に限って異体字なのである。しかも、その異体字はなぜかコンピュータで出ない。それで「一字貼り込み」に頼ると、校了後に剥がれ落ちている。校了後だから誰も気がつかないまま本になって、冒頭巻頭言の筆者の名前が間違ったまま配布されるという印刷屋にとって悪夢のような事態がおこってしまう。手動写植や電算写植の時代はこうした異体字切り貼りに関する悲喜劇はあとをたたなかった。

 もっとも、最近異体字に関する苦労はかなり減ってきている。CIDに代表されるように異体字があらかじめ文字フォントにセットされるようになってきているからだ。これで作字の手間も必要なく、ほとんどの異体字が表示可能になった。ためしにIndesignの「字形」機能をためしてみられることをおすすめする。いとも簡単に異体字が出る。

 ただ、そうなったらそうなったで、また問題が出てくる。

 いったい漢字はどこからどこまでが同じ漢字で、どこからが違う漢字かという包摂問題である。クライアントの言うなりに、ほんのすこしの字形の違いでも全部違う字としてしまったのでは、きりがない。無限に字形の数がふえてしまうし、いざ検索したりするときも不便だ。本人はいざしらず、文字を検索しようとしている人は渡邉(CID14236)(一点しんにゅう)さんと渡邉(CID6930)(二点しんにゅう)さんの違いなど意識していまい。渡邉(CID14236)さんを検索しようとして、渡邉(CID6930)さんと登録されていたために検索できなかったりしたらコンピュータ社会ではかえって不便である。

 解決策としてUNICODEのIVSがある。毀誉褒貶はげしかったUNICODEも、ここにきてすっかり定着した。世界中で共通の規格であることの便利さにくわえ、次々拡張される漢字は、実用上きわめて有効である。この中でIVSは考え方そのものは古くからあったようだが、規格化されたのは2008年とごくあたらしい。異体字ごとに別のコードを振るのではなく、字形のちょっとした違いはコードに枝番をふることで解決するのだ。検索などをおこなう場合には主たるコードですればよく、こだわって、細かい差違を気にしたいのであれば、枝番を有効にして字形の違いを表現すればいい。たとえば、「邊」には17の字形が用意されている。この考え方はおもしろい。もしかしたら、電算写植のはじめのころから40年にわたって、印刷業界を混乱におとしいれてきた漢字コード問題の終結が近いという気にさせられる。
 
 ただ、ここでも「邊」と「邉」はUNICODEの番号そのものが違うのでやはり区別されてしまう。もちろん「辺」もだ。

 そしてIVSの枝番にどの字形を採用するかには、やはり字形を包摂する必要がでてくる。字形はちょっとした書体の違いでも変異してしまう。「とめ」と「はらい」をゴシック体で区別しようするのにはどだい無理があるのだ。

 結局、枝番を作ってもやはり包摂問題からはのがれられない事になる。表意文字である漢字はどこまで行ってもコンピュータと相性が悪いとしかいいようがない。 

モノタイプを知っていますか

 当社の応接間に天井からつきだした謎の配管がある。応接間に水道管はおかしいし、ガス管にしてはあまりに無防備だ。ずっと不思議には思っていたが、ITの進化を追うのに忙しく、深く詮索しもしなかった。ところが、退職した社員と応接室で昔話をしていてふとその話になった。
 「そういえばあの配管なんのためにあるのか知ってます?あれはね、モノタイプのキーボードに圧搾空気を送る管なんですよ」
 今の、応接間はその昔、モノタイプのキーボード部屋だったのだ。
 モノタイプと言っても、既に印刷人でもその姿かたちどころか名前を知っている人すら多くないと思う。モノタイプは自動活字鋳植機のひとつである。キーボードから入力した文字が、モノタイプキャスターから自動的に鋳造され活字として並んででてくる。いわば、出力が活字のワープロといっていい。今から30年前には印刷近代化の花形でもあった。活字と言えば活字の棚から手で拾うのが普通だった時代、実に先進的な機械だった。
 驚くべきは、そうした自動機械が、歯車とテコ、そして圧搾空気のような物理的機構で動いていたことである。先の配管はその証だ。当時の印刷工場は、今ならLANケーブルが這い回るようなところ、圧搾空気の配管やワイヤーなどを張り巡らしていたのである。そして情報の伝達保存媒体は鑽孔テープだった。鑽孔テープは紙テープにぷつぶつと小さな穴をあけ、物理的、もしくは光学的に読み込むことで、情報を伝達・保存する方法である。今では鑽孔テープを見ることはまずなくなったが、コンピュータ初期、入出力媒体としてよく使われていた。今で言うハイテクなイメージがあり、エリート社員が電車の中で自慢気に鑽孔紙テープを読んでいるというマンガを覚えている。
 私の父はモノタイプにのめり込んでいた。活版印刷専業だった当社は写植には目もくれず、一途にモノタイプを追いかけていた。その先頭に立っていたのが、父だったのだ。天井の配管再発見を機会に父の残したファイルを探してみると、モノタイプキーボードにどの字をどのように配置するかという詳細に検討した図が残されていた。父らしい律儀な字で細かく文字の取捨選択の書き込みがなされている。またモノタイプのメーカーと字形やベースライン位置を巡って、丁々発止、手紙でやりとりとしていた記録も残っていた。当時、モノタイプのキーボードや母型盤は一社一社特注だったのだ。そこには中小企業としての創意工夫の活かせる部分が大きかったように思う。
 今、印刷設備はほとんど規格品である。文字はJISやUNICODEで規定されてしまっているし、DTPソフトも寡占化が激しい。コンピュータの時代とはまさしく寡占の時代でもある。中小企業として選択のできる余地は本当に少なくなった。従って、他社との差別化もつけにくい時代にはいっている。勢い、主戦場は「価格」である。
 歯車やてこといった機械部品を扱って生産していた時代は各社で工夫することで生産性や商品性で差別化ができていた。モノタイプもその典型例だと思う。一字一字、自社の仕事にもっともふさわしい文字配列を考えている父の姿が思い浮かぶ。父の選択ひとつで組版の生産性がまるで違うのだから、責任も重いが、やりがいもあっただろうと思う。
 もちろん、いまさらモノタイプの時代に戻れるわけではない。われわれも機械で差別化することこそ難しくなったが、ソフトウェアやデザインで他社との差別化を図ろうとしてきた。まだまだ新しい創意工夫を考えていかねばならないし、その方向が紙の上にはないかもしれないのは、もう何度も書いてきた通りだ。でもちょっとモノタイプに思いをはせて、昭和の高度経済成長時代のノスタルジーに浸ってみるのも悪くない。

活字が消えた日 -コンピュータと印刷- 復刊

私の唯一のベストセラー「活字が消えた日」がソフトカバーで10年ぶりに復活!

よみがえる感動!電子の時代に若旦那は果敢に活版工場の電子化に挑戦した。古参社員との軋轢、父との確執、若い社員の協力。やがて活版職人はUNIXをあやつるようになる!!

Katsuji_cover

「松香堂」発行 ISBN978-4-87974-652-8   本体1800円+税 


復刊の辞

 本書は一九九四年に晶文社から刊行された同名本を軽装版として復刊したものである。

 晶文社から発行された本書「活字が消えた日」は著者自らが言うのもなんだが、書評などで好評もって迎えられ、売れ行きもよく版を重ねた。最終版は七版で一九九七年である。その後、私はさらに晶文社から「印刷はどこへ行くのか」を上梓し、また他社からも今までに五冊の著書を刊行した。しかし残念なことに、販売部数にしても書評などでの評判に関しても処女作である「活字が消えた日」を上回る物はない。

 本書は最後の増刷から一〇年以上が経過し、市場に出回ることもなくなっていた。ただ、私の講演会などでは人気が高く、根強く売れ続けていた。昨年(二〇一〇)電子書籍がブームになり、私も「我電子書籍の抵抗勢力たらんと欲す」という本を出したが、これは私の本としては久々にヒットとなった。これに関連してか、印刷電子化の原点である「活版から電子組版」へのいきさつを記した本書への関心が高まり、プログなどでの言及が増えていた。晶文社に増刷予定を問い合わせたが、晶文社の方針変更もあってか増刷はしないとのこと。そこで晶文社とも相談の上、軽装版として松香堂から復刊することとした。内容については当時のままとしたが、表紙をハードカバーからソフトカバーにあらため、ジャケット類は時代にあわせて新に作り直すこととした。

 初版発行から十七年。三〇代だった私も、もう五〇代も半ばにさしかかっている。このあいだに、印刷業界にもDTP革命やCTPの普及などいろいろなことがあったが、出版市場、印刷市場は縮小し続けている。かわって伸びているのはネットなど紙のない情報流通だ。この勢いは本書で予想したよりも遙かに速い。

 活版から電算組版そしてDTPへの変化のただ中にいた時、グーテンベルグ以来のこんな変革は五百年に一度あるかないかだろうし、人間の短い一生には一度しか体験しないぐらいの大変革だと思っていたが、なんのことはない。現在では、電子書籍が印刷業界の話題の中心となる時代だ。電子書籍は活版が電子化したときよりもはるかに大きな変化を本をはじめとした情報流通の世界におこすいきおいである。

 ある意味、活字が消えたとき、実は、本も終わっていたのかもしれない。

電子出版EXPOに見る印刷屋の未来

 夏の楽しみ、電子出版EXPOに今年も行ってきた。電子出版に関する展示会は、印刷関係の展示会が寂れる一方なのとは対照的に、年々隆盛になっている。今年は節電のお達しのためか、空調もあまり効かず、動く歩道も動かないという状況下、平日というのに大変な人出だった。まさしく熱気渦巻くという奴だ。

 今年は去年あれほど目立っていた電子書籍専用端末の姿が目立たない。目立たないというより、もう電子書籍専用端末それ自身は電子出版の主要に関心事ではなくなっているということだ。特にiPadのようなタブレットタイプの電子書籍は、結局の所、キーボードを取り去ったノートパソコンにすぎないわけで、これはもう電子書籍展示会よりパソコン展示会でお披露目する性格の物になっている。そして電子ペーパーを使ったモノクロ電子書籍端末は進化がない。去年、初めて実物を見て進化に期待したカラー電子ペーパーも液晶画面のタブレットタイプ電子書籍に比べればどうにも見劣りがするレベルから進んでいない。いずれにしても、端末そのものは今年の電子出版EXPOの話題にはならない。

 元気なのは、とにかく電子書籍プラットホームと、電子書籍製作キットのブースだ。電子書籍の販売プラットホームというのはApp StoreやAmazonをひきあいにだすまでもなく、よほどおいしい商売に見えるのか、遅れをとってはならじといろんな会社がひしめいていて、印刷会社も大手から中小までいろいろな会社が参入を試みている。そして、電子書籍を製作するためのキット・ツール類はまさに百花繚乱。

 なんのことはない、電子出版EXPOといっても、電子書籍そのもので儲けようとしているのではなく、電子書籍で儲けようとしている会社相手に電子書籍のプラットホームや製作キットを売り込んで展示会なのだ。もっとも印刷の展示会だって、印刷を展示しているのではなく、印刷で儲けようとしてる会社や人のために印刷機という印刷ツールを売り込んでいるのだから同じ事なのかもしれないけれど。

 さてここから先、印刷会社が何がやるのかということを考える。やはり電子書籍を作ることしかないと思う。電子書籍のツールやプラットホームは、悔しいがわれわれにできる仕事とは思えない。もちろん、逆転の発想から印刷会社でプラットホームや製作ツールに革新をもたらすこともあるだろうし、現に大手では試みているところもある。しかし大多数のコツコツ製造を続けてきた印刷会社にとって、この領域は危険な賭だ。

 結局、各々ツールを使いながら、電子書籍端末に向かって地道に作業を繰り返していくことが印刷屋の仕事となるだろう。読みやすさや美しさを常に意識しながら読者の心に響く組版を続けていくということだ。考えてみたら、これは活版の時も、手動写植のときも、電算写植やDTPのときもかわりない。読者に美しい組版を届けることがまずは印刷屋のすべきことなのだ。

 だが、こんな美しいだけの話ではすまない。よくよく思い出したいのは、WEBページの時も同じようなことをいい、業界あげてWEBページに取り組んだのに、結局WEBページビジネスでは印刷会社が主役になれなかったことだ。原因はいろいろ考えられるが、WEBページを既存の印刷物デザインの延長と考えたからではないか。紙の上での読みやすさと、画面の上での読みやすさは違うし、画面ではブログラムも使ったインタラクティブなページを作れる。こうした進化に印刷業界はついていけなかった。電子書籍ではそうはさせてはならない。電子書籍というあらたなデバイスはいまのところは紙の本を画面上でシミュレートしているだけだが、これから絶対に電子書籍独自の進化をはじめる。その芽をいち早く感じ取って、今度こそ印刷業界を飛躍させねばならない。まだまだ電子書籍の動向から目を離せない。

(11/09/23 原文は7月に書いた物なので旬がすぎてますが)

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