「学術出版の技術変遷論考 活版からDTPまで」
新著です。
今回は活字からDTPまでの印刷会社の変遷を学術印刷の動向に絞って記述。
A5上製 450ページ という大作になってしまいました。ちょっと高いですが、是非お買い上げください。
印刷学会出版部刊 6800円+税
新著です。
今回は活字からDTPまでの印刷会社の変遷を学術印刷の動向に絞って記述。
A5上製 450ページ という大作になってしまいました。ちょっと高いですが、是非お買い上げください。
印刷学会出版部刊 6800円+税
電子書籍は英語圏の急速な普及に比べて、日本語の世界ではもうひとつ伸び悩んでいる。原因については出版社の抵抗とか、再販制度の功罪とかさまざまに取りざたされているが、印刷業界からはひとこと言っておきたい。やはり、画面における文字の問題だと。今の電子書籍画面では文字が悪い。
英語では画面の文字の悪さはそれほど目立たないが、それは当たり前で、ラテンアルファベットと漢字の複雑さの違いからもこれは明白だ。漢字の方が圧倒的に画数が多い。これは10画20画がざらにある漢字に比べてラテン文字大文字の画数を数えあげててみればすぐにわかる。CやI、それにOは一画だし、DやMにしても2画、もっとも画数の多いのはEで、それでも4画である。ということはアルファベットに比べて漢字一字の中に引かれている線がはるかに多いことになる。もちろん、漢字はやや大きい文字で印刷されることになるが、それでも漢字の線密度が濃いことにかわりない。
同じ面積で線の数を多く引こうと思えば、線を細くするしかない。しかも日本語の中でもっとも多用される明朝体は、縦に比べて横線が細い。この明朝の横線を美しく表現するためには、かなりの精細さが必要になる。解像度の低いディスプレイでは明朝体ではなくゴシック体しか表現できないのはこのためだ。現実に私が原稿を書いているこのワープロでも画面表現はゴシックである。
厄介なのは、明朝の横線を表現するために、そのもっとも細いところに等しい解像度があれば良いのではない。字のバランスを適切に表現するためには、明朝最細線よりはるかに細かい解像度がいる。これはデジタル文字の性質からどうしてもそうならざるをえないのだ。ドット境界が重なった場合どうなるかを考えてもらいたい。ドットより細かい線は絶対に引けないわけだから、この場合、境界にあるどちらか片方のドットで表現する、つまり字のバランスを崩すか、両方のドットでつまり線を太く表現するしかない。
この明朝の横線問題は、印刷にデジタル技術が導入されて以来、プリンタでもディスプレイでも問題であり続けた。プロ用のセッターやCTPで1200DPIや2400DPIといったとんでもない解像度を要求するのは、カラー写真などの階調表現を担保するとともに、美しいフォントバランスを表現するためといっても過言ではない。
ラテンアルファベットでは画数が少ないこともあり、元々ここまでの解像度がなくてもそこそこ綺麗な文字表現が出来る。だから解像度がそれほど高くない段階でも商品として成立しやすい。ワープロでもDTPでも、欧米での普及は日本での普及より数年早かった。日本語組版問題の解決やフォントの作成に数年かかるからともいえるが、私はこの解像度の問題が大きいのではないかと思っている。日本語の表現が充分になるまでにデバイスの解像度があがるのに欧米の普及からさらに数年を要するのだ。
そして電子書籍だ。欧米の機器の標準をそのまま持ち込んでも無理なのがここでもわかると思う。確かに、現在の電子書籍の解像度でも文字は読めなくはない。ゴシックでは充分かもしれない。しかし、今の電子書籍の画面で要求されるのは美しい明朝体表現だ。書籍にゴシックでなくて、明朝が好まれるのは、それが読みやすいからだ。明朝に対する慣れだけではない。欧米でもセリフ系の文字は縦が太くて、横が細い。それが人間の目にとって認識しやすく自然なのだ。だから明朝が正しく表現できないと書籍の代替とはならない。それはデバイスが液晶か電子ペーパーかという問題ではない。
逆に明朝が綺麗に表現できるデバイスが登場したとき、電子書籍は日本でも普及期にはいるという結論になってしまう。これは意外に早いかもしれない。どうします?
(この問題、現在のシステムでは表現しきれないので、CIDをふっておきます。)
印刷会社にとって厄介な名字というのがいくつかある。いや誤解しないでいただきたい。個々の個人についての話ではない。あくまで字としての名字のことだ。いくつかあるが、一番よくお目にかかって、処理に難渋するのが、渡辺さんである。
渡辺は名字の中でも5指にはいる多い名字なのに渡辺の「辺」にやたらに異体字が多いのである。渡邉(CID6930)さんと渡邊(CID6929)さんぐらいならまだしも、一点しんにゅうの渡邉(CID14241)でなきゃ気が済まない人もいる。となると当然渡邉(CID6929)さんも登場することになる。田辺さんも同じく厄介なのだが、なにせ渡辺さんは人数が多く、その分異体バリエーションも多岐にわたる。
印刷に使う文字は、常用漢字とか、JIS漢字に限定してくれれば楽なのだろうが、一般名詞はともかく人名は許してもらえない。不思議なことに、集まった原稿の中で偉い人の名字に限って異体字なのである。しかも、その異体字はなぜかコンピュータで出ない。それで「一字貼り込み」に頼ると、校了後に剥がれ落ちている。校了後だから誰も気がつかないまま本になって、冒頭巻頭言の筆者の名前が間違ったまま配布されるという印刷屋にとって悪夢のような事態がおこってしまう。手動写植や電算写植の時代はこうした異体字切り貼りに関する悲喜劇はあとをたたなかった。
もっとも、最近異体字に関する苦労はかなり減ってきている。CIDに代表されるように異体字があらかじめ文字フォントにセットされるようになってきているからだ。これで作字の手間も必要なく、ほとんどの異体字が表示可能になった。ためしにIndesignの「字形」機能をためしてみられることをおすすめする。いとも簡単に異体字が出る。
ただ、そうなったらそうなったで、また問題が出てくる。
いったい漢字はどこからどこまでが同じ漢字で、どこからが違う漢字かという包摂問題である。クライアントの言うなりに、ほんのすこしの字形の違いでも全部違う字としてしまったのでは、きりがない。無限に字形の数がふえてしまうし、いざ検索したりするときも不便だ。本人はいざしらず、文字を検索しようとしている人は渡邉(CID14236)(一点しんにゅう)さんと渡邉(CID6930)(二点しんにゅう)さんの違いなど意識していまい。渡邉(CID14236)さんを検索しようとして、渡邉(CID6930)さんと登録されていたために検索できなかったりしたらコンピュータ社会ではかえって不便である。
解決策としてUNICODEのIVSがある。毀誉褒貶はげしかったUNICODEも、ここにきてすっかり定着した。世界中で共通の規格であることの便利さにくわえ、次々拡張される漢字は、実用上きわめて有効である。この中でIVSは考え方そのものは古くからあったようだが、規格化されたのは2008年とごくあたらしい。異体字ごとに別のコードを振るのではなく、字形のちょっとした違いはコードに枝番をふることで解決するのだ。検索などをおこなう場合には主たるコードですればよく、こだわって、細かい差違を気にしたいのであれば、枝番を有効にして字形の違いを表現すればいい。たとえば、「邊」には17の字形が用意されている。この考え方はおもしろい。もしかしたら、電算写植のはじめのころから40年にわたって、印刷業界を混乱におとしいれてきた漢字コード問題の終結が近いという気にさせられる。
ただ、ここでも「邊」と「邉」はUNICODEの番号そのものが違うのでやはり区別されてしまう。もちろん「辺」もだ。
そしてIVSの枝番にどの字形を採用するかには、やはり字形を包摂する必要がでてくる。字形はちょっとした書体の違いでも変異してしまう。「とめ」と「はらい」をゴシック体で区別しようするのにはどだい無理があるのだ。
結局、枝番を作ってもやはり包摂問題からはのがれられない事になる。表意文字である漢字はどこまで行ってもコンピュータと相性が悪いとしかいいようがない。
当社の応接間に天井からつきだした謎の配管がある。応接間に水道管はおかしいし、ガス管にしてはあまりに無防備だ。ずっと不思議には思っていたが、ITの進化を追うのに忙しく、深く詮索しもしなかった。ところが、退職した社員と応接室で昔話をしていてふとその話になった。
「そういえばあの配管なんのためにあるのか知ってます?あれはね、モノタイプのキーボードに圧搾空気を送る管なんですよ」
今の、応接間はその昔、モノタイプのキーボード部屋だったのだ。
モノタイプと言っても、既に印刷人でもその姿かたちどころか名前を知っている人すら多くないと思う。モノタイプは自動活字鋳植機のひとつである。キーボードから入力した文字が、モノタイプキャスターから自動的に鋳造され活字として並んででてくる。いわば、出力が活字のワープロといっていい。今から30年前には印刷近代化の花形でもあった。活字と言えば活字の棚から手で拾うのが普通だった時代、実に先進的な機械だった。
驚くべきは、そうした自動機械が、歯車とテコ、そして圧搾空気のような物理的機構で動いていたことである。先の配管はその証だ。当時の印刷工場は、今ならLANケーブルが這い回るようなところ、圧搾空気の配管やワイヤーなどを張り巡らしていたのである。そして情報の伝達保存媒体は鑽孔テープだった。鑽孔テープは紙テープにぷつぶつと小さな穴をあけ、物理的、もしくは光学的に読み込むことで、情報を伝達・保存する方法である。今では鑽孔テープを見ることはまずなくなったが、コンピュータ初期、入出力媒体としてよく使われていた。今で言うハイテクなイメージがあり、エリート社員が電車の中で自慢気に鑽孔紙テープを読んでいるというマンガを覚えている。
私の父はモノタイプにのめり込んでいた。活版印刷専業だった当社は写植には目もくれず、一途にモノタイプを追いかけていた。その先頭に立っていたのが、父だったのだ。天井の配管再発見を機会に父の残したファイルを探してみると、モノタイプキーボードにどの字をどのように配置するかという詳細に検討した図が残されていた。父らしい律儀な字で細かく文字の取捨選択の書き込みがなされている。またモノタイプのメーカーと字形やベースライン位置を巡って、丁々発止、手紙でやりとりとしていた記録も残っていた。当時、モノタイプのキーボードや母型盤は一社一社特注だったのだ。そこには中小企業としての創意工夫の活かせる部分が大きかったように思う。
今、印刷設備はほとんど規格品である。文字はJISやUNICODEで規定されてしまっているし、DTPソフトも寡占化が激しい。コンピュータの時代とはまさしく寡占の時代でもある。中小企業として選択のできる余地は本当に少なくなった。従って、他社との差別化もつけにくい時代にはいっている。勢い、主戦場は「価格」である。
歯車やてこといった機械部品を扱って生産していた時代は各社で工夫することで生産性や商品性で差別化ができていた。モノタイプもその典型例だと思う。一字一字、自社の仕事にもっともふさわしい文字配列を考えている父の姿が思い浮かぶ。父の選択ひとつで組版の生産性がまるで違うのだから、責任も重いが、やりがいもあっただろうと思う。
もちろん、いまさらモノタイプの時代に戻れるわけではない。われわれも機械で差別化することこそ難しくなったが、ソフトウェアやデザインで他社との差別化を図ろうとしてきた。まだまだ新しい創意工夫を考えていかねばならないし、その方向が紙の上にはないかもしれないのは、もう何度も書いてきた通りだ。でもちょっとモノタイプに思いをはせて、昭和の高度経済成長時代のノスタルジーに浸ってみるのも悪くない。
私の唯一のベストセラー「活字が消えた日」がソフトカバーで10年ぶりに復活!
よみがえる感動!電子の時代に若旦那は果敢に活版工場の電子化に挑戦した。古参社員との軋轢、父との確執、若い社員の協力。やがて活版職人はUNIXをあやつるようになる!!
「松香堂」発行 ISBN978-4-87974-652-8 本体1800円+税
復刊の辞
本書は一九九四年に晶文社から刊行された同名本を軽装版として復刊したものである。
晶文社から発行された本書「活字が消えた日」は著者自らが言うのもなんだが、書評などで好評もって迎えられ、売れ行きもよく版を重ねた。最終版は七版で一九九七年である。その後、私はさらに晶文社から「印刷はどこへ行くのか」を上梓し、また他社からも今までに五冊の著書を刊行した。しかし残念なことに、販売部数にしても書評などでの評判に関しても処女作である「活字が消えた日」を上回る物はない。
本書は最後の増刷から一〇年以上が経過し、市場に出回ることもなくなっていた。ただ、私の講演会などでは人気が高く、根強く売れ続けていた。昨年(二〇一〇)電子書籍がブームになり、私も「我電子書籍の抵抗勢力たらんと欲す」という本を出したが、これは私の本としては久々にヒットとなった。これに関連してか、印刷電子化の原点である「活版から電子組版」へのいきさつを記した本書への関心が高まり、プログなどでの言及が増えていた。晶文社に増刷予定を問い合わせたが、晶文社の方針変更もあってか増刷はしないとのこと。そこで晶文社とも相談の上、軽装版として松香堂から復刊することとした。内容については当時のままとしたが、表紙をハードカバーからソフトカバーにあらため、ジャケット類は時代にあわせて新に作り直すこととした。
初版発行から十七年。三〇代だった私も、もう五〇代も半ばにさしかかっている。このあいだに、印刷業界にもDTP革命やCTPの普及などいろいろなことがあったが、出版市場、印刷市場は縮小し続けている。かわって伸びているのはネットなど紙のない情報流通だ。この勢いは本書で予想したよりも遙かに速い。
活版から電算組版そしてDTPへの変化のただ中にいた時、グーテンベルグ以来のこんな変革は五百年に一度あるかないかだろうし、人間の短い一生には一度しか体験しないぐらいの大変革だと思っていたが、なんのことはない。現在では、電子書籍が印刷業界の話題の中心となる時代だ。電子書籍は活版が電子化したときよりもはるかに大きな変化を本をはじめとした情報流通の世界におこすいきおいである。
ある意味、活字が消えたとき、実は、本も終わっていたのかもしれない。
夏の楽しみ、電子出版EXPOに今年も行ってきた。電子出版に関する展示会は、印刷関係の展示会が寂れる一方なのとは対照的に、年々隆盛になっている。今年は節電のお達しのためか、空調もあまり効かず、動く歩道も動かないという状況下、平日というのに大変な人出だった。まさしく熱気渦巻くという奴だ。
今年は去年あれほど目立っていた電子書籍専用端末の姿が目立たない。目立たないというより、もう電子書籍専用端末それ自身は電子出版の主要に関心事ではなくなっているということだ。特にiPadのようなタブレットタイプの電子書籍は、結局の所、キーボードを取り去ったノートパソコンにすぎないわけで、これはもう電子書籍展示会よりパソコン展示会でお披露目する性格の物になっている。そして電子ペーパーを使ったモノクロ電子書籍端末は進化がない。去年、初めて実物を見て進化に期待したカラー電子ペーパーも液晶画面のタブレットタイプ電子書籍に比べればどうにも見劣りがするレベルから進んでいない。いずれにしても、端末そのものは今年の電子出版EXPOの話題にはならない。
元気なのは、とにかく電子書籍プラットホームと、電子書籍製作キットのブースだ。電子書籍の販売プラットホームというのはApp StoreやAmazonをひきあいにだすまでもなく、よほどおいしい商売に見えるのか、遅れをとってはならじといろんな会社がひしめいていて、印刷会社も大手から中小までいろいろな会社が参入を試みている。そして、電子書籍を製作するためのキット・ツール類はまさに百花繚乱。
なんのことはない、電子出版EXPOといっても、電子書籍そのもので儲けようとしているのではなく、電子書籍で儲けようとしている会社相手に電子書籍のプラットホームや製作キットを売り込んで展示会なのだ。もっとも印刷の展示会だって、印刷を展示しているのではなく、印刷で儲けようとしてる会社や人のために印刷機という印刷ツールを売り込んでいるのだから同じ事なのかもしれないけれど。
さてここから先、印刷会社が何がやるのかということを考える。やはり電子書籍を作ることしかないと思う。電子書籍のツールやプラットホームは、悔しいがわれわれにできる仕事とは思えない。もちろん、逆転の発想から印刷会社でプラットホームや製作ツールに革新をもたらすこともあるだろうし、現に大手では試みているところもある。しかし大多数のコツコツ製造を続けてきた印刷会社にとって、この領域は危険な賭だ。
結局、各々ツールを使いながら、電子書籍端末に向かって地道に作業を繰り返していくことが印刷屋の仕事となるだろう。読みやすさや美しさを常に意識しながら読者の心に響く組版を続けていくということだ。考えてみたら、これは活版の時も、手動写植のときも、電算写植やDTPのときもかわりない。読者に美しい組版を届けることがまずは印刷屋のすべきことなのだ。
だが、こんな美しいだけの話ではすまない。よくよく思い出したいのは、WEBページの時も同じようなことをいい、業界あげてWEBページに取り組んだのに、結局WEBページビジネスでは印刷会社が主役になれなかったことだ。原因はいろいろ考えられるが、WEBページを既存の印刷物デザインの延長と考えたからではないか。紙の上での読みやすさと、画面の上での読みやすさは違うし、画面ではブログラムも使ったインタラクティブなページを作れる。こうした進化に印刷業界はついていけなかった。電子書籍ではそうはさせてはならない。電子書籍というあらたなデバイスはいまのところは紙の本を画面上でシミュレートしているだけだが、これから絶対に電子書籍独自の進化をはじめる。その芽をいち早く感じ取って、今度こそ印刷業界を飛躍させねばならない。まだまだ電子書籍の動向から目を離せない。
(11/09/23 原文は7月に書いた物なので旬がすぎてますが)
今日も今日とて、電子書籍への抵抗を説いてまわっておりますが、旗色は悪い。電子書籍端末は日に日に良くなる。薄くて軽くて綺麗になる。そして、さんざコンテンツの少なさを揶揄してきたが、ラインナップもどんどん充実している。青空文庫のような無料コンテンツを電子書籍で読む草の根の試みもはじまった。
それでも、電子書籍への抵抗を続けなければ、印刷業界はメディアの大海の中で埋没してしまうと、抵抗運動を煽るのだが、笛吹けど踊らず、なかなか動いてはもらえない。むしろ、IT関連の会社から毎日のように送られてくる「電子書籍セミナー」のダイレクトメイルの数々に負けそうになる。曰く、「電子の時代は、早くから取組を始めて市場を制覇したもののみが勝つ、早い者勝ちの世界です。電子書籍にどこよりも早く取り組んで印刷業界での勝ち組になりましょう」。
ITの世界で勝ち残るのは一社というのは説得力がありすぎる。実例ばかりなのだ。あれほど多彩だったパソコンワープロの世界も、今やWORDの一人勝ちだし、DTPは関連ソフト一切合切含めてIndesignの寡占状態だ。かくて、電子書籍セミナーも勝ち組の一社になろうと大盛況とあいなるわけだ。ただ、電子書籍のフォーマットたとえばePubは勉強すればそれほど難しいものではない。むしろ共通規格であるだけに独自のレイアウトなどには凝りにくく他社との差が出しにくい。このまま行くと業界でePub受注で差別化できるのは、価格だけと言うことになりかねない。となると、これだけみんなが電子書籍セミナーにかけつけたあとは何がおこるかは明白だ。電子書籍制作サービスの過当競争である。そしてまたもや安売り合戦だ。
嫌な想像をしなければならない。来年あたり、印刷通販サイトは、ePub通販サイトになりかわって、こぞって「激安ePub」「超特価ePub制作」の文字を並べるようになる。
もともと、私は「電子書籍への抵抗勢力理論」で電子書籍による印刷業界への恩恵はないに等しく、印刷や製本の代金が減った分を電子書籍の制作ビジネスで設けるのは至難の技と言い続けてきた。ただでさえ、利幅の薄い電子書籍ビジネスで安値受注合戦が起こったら、おそらくもう何も残らない。利益も残らないし、売り上げも残らない。そもそも会社が残らない。
しかし、だからといって旧来の印刷に展望が開けているわけでもない。印刷に展望が開けないから、成長産業であるように見える電子書籍ビジネスにとびつこうとするわけだ。なんか八方ふさがりだなと思っていたが、意外に若者の方がしたたかだった。
会社の若い社員が、「電子書籍をやりたい」と言ってきた。ePub制作だけでなく、配布ビジネスもやりたいし、印刷とのコラボレーションもやりたい。電子書籍の可能性をとことんつきつめたいというのだ。彼らの言うには、今の書籍の延長線上に電子書籍を考えるから、悲観的にならざるをえないのであって、電子書籍をネットにつながった携帯端末ととらえれば無限の可能性があるという。どんな可能性かはわからないが、わかるためにはとにかく電子書籍を作ってみなければ話にならない。
それで、彼らは実際に電子書籍を作って配布するというプロジェクトを始めたわけだが、そこで彼らが選んだのが私の著作である。つまり、例の書籍である。
「我、電子書籍の抵抗勢力たらんと欲す」
これが成功すれば、読者は電子書籍で電子書籍の抵抗への話を読むことになる。究極のアンビバレンツ。しかし、このアンビバレンツの中に、未来への展望がほの見えるような気がするのだ。電子書籍は500年続いたグーテンベルグ時代の完全な終わりを意味する。グーテンベルグの活版印刷術は本を大量に流布させることで歴史そのものを変革した。電子書籍とネット革命によって、これから何がおこるかは、老眼鏡ごしにはわからないかもしれない。
ああやっぱりな。
アマゾンでスパム本が問題になっているそうな。自分が簡単に著者になって自費出版ができてしまうのは、電子書籍の最大の利点とも言われたけれど、これを逆手にとった新手のスパムである。
手口は2つ、ひとつは充実した内容のものをそのまま盗作してしまうというものだ。タイトルや著書名、それに主人公の名前など変えてしまえば膨大な電子書籍群の中から、盗作かどうかを判別するのはかなり難しい。これを本家より安く売る。1ドルでいい。1冊の収入は65セントにすぎないが、1000冊売れれば650ドル、もし1万部売れれば6500ドル。元出はほとんどゼロだからおいしい話だ。
もうひとつはPLR(Private Label Rights)つきの素材をつかうものだ。このPLRというのも初めて知ったが、アメリカにはいろいろな商売が生じているものだと思った。プログにもっともらしい記事を常に配信するのはけっこう才能のいる話なので、こういった客寄せ用の記事を売ってくれる商売だということだ。これだと元の記事の著作権者とか改ざん禁止とかうるさいこと言わない。自分の好きなような換えて、自分の名前で発表してよい。スパム本はこういった記事をたくみにつなぎあわせるのだそうだ。これでけっこうもっともらしいものがでっちあがる。
電子書籍は従来の活字文化を破壊するとは言い続けて抵抗運動したりしていたが、やはりこういうことになってしいましたか。ソシャルネットワークで査読するとか言っているけれど、はたしてどうでしょうね。次には査読済み証明書の権利が安売りされそうだ。
なおこのニュースソースはEBOOK2.0という有料のニュースレターだけれど主宰者からOKをいただきましたんで下に紹介しときます。
電子書籍に関する議論がかまびすしい。現在の電子書籍端末を論って、懐疑的な人もいるが、実際に読んで見られることをお勧めする。活字を自分の好きなサイズに拡大して読める電子書籍の機能が、老眼鏡をかけて必至に細かい字を追わねばならない身には紙の本より便利であることに得心がいかれるはずだ。また、たとえ今の電子書籍端末が読みにくいものだとしても、電子書籍は市場に出たばかり。これからもっと読みやすい画面が開発されるだろうし、端末は薄く軽くなるだろう。なにより、電子書籍最大のメリットはそれが蔵書無限の図書館だということだ。通信機能を使えば、欲しいと思った時すぐにその本が現れる。評価の定まった古典を無料で堪能できるインターネットのサイトと電子書籍が結びつけば、いつでもどこでも無料で古典と親しめるという読書人にとって夢のような時代がやってくることになる。
ただし電子書籍は残念ながら本ではない。本は紙を綴じたひとつの物理的実態だからこそ本だった。表紙もカバーもインクの匂いも含めて本なのだ。読み終わった本が一冊、また一冊と本箱に並んでこそ本なのだ。それに、紙の本の場合、いったん印刷されて書店に並んでしまったら、回収することはまず不可能。出来の悪い本をだせば返品のリスクもある。だからこそ、出版社は校正に万全を期し、確実に売れる部数を出版するというきめこまかな編集や営業政策をとってきた。これが結果として本の質を高めてきた。そして物理的実態としての本には印刷会社や製本会社の職人の思いが込められ、本屋の店頭での出会いを通じて、豊かな読書文化がかたちづくられてきた。
今はまだ本の文化と電子書籍の文化は競合することもなく棲み分けている。むしろ電子書籍は過去に紙の本で培われてきた豊かな内容を電子化することで、あらたな読書文化を電子の世界に提供しようとしているかに見える。だが、この蜜月の時代は長くは続かない。これからは電子書籍オリジナルの内容が増えていくだろう。印刷と製本の工程がなく、紙もいらない電子書籍は出版を極めて容易にする。極端に言えば、作者の意志のみで出版が可能になる。印刷職人も、製本職人も、そして出版社の編集者もいらない。それで本が涵養してきた質が維持できるだろうか。とてもそうは思えない。
いい本を作りたいという情熱が同じであれば、電子書籍でも質は低下しないとおっしゃる方もいるだろうが、今のインターネットの混沌をみると、とても信じられない。いい電子書籍もでるかもしれないが、それ以上に信頼性も質も保証されない悪い電子書籍が大量に出回る可能性が高い。そうした悪い電子書籍が安価もしくは無料で提供されれば、良くても高価な電子書籍は生き残れない。まして、紙代と製本代故に高価にならざるをえない紙の本は生き残れまい。電子書籍は単に新たな読書手段を提供するだけにとどまらず、紙の本の文化まで破壊しかねないのだ。
紙の本をもう一度見直していただきたいところだが、電子書籍の利便性はもはや誰にも否定できないところまで来ている。だとしたら、電子書籍でも質が担保できる方策を考えて実行に移さなければ、読書文化は奈落に落ちる。
初出 京都新聞 私論公論 2011/5/27
私のガラケーも買って3年。これはこれで非常に重宝なのだけれど、最近、印刷関係の集まりにいくたびにスマホ自慢になる。それで突然思い立って、今日からスマホである。iPadを使って、タッチパネルが想像以上に使えると思えたことも背中を押した。なにより、まずは印刷の敵であるところのIT機器を知らなければね。
スマホは小さいながら一昔前なら立派にパソコンとして通用する機能をもっている。メイルはいわゆる携帯メイルだけでなく普通のPC用のメイルアドレスが使えるし、インターネットもPC用のWEBページが見られる。他にもいたれりつくせりだ。もちろん、断るまでもないが電子書籍だって読める。それに加えて携帯メーカー各社はちょっとでも他社のスマホと差別化しようと、次から次へと機能が増える。私の買ったスマホなんかは3D表示や3Dゲームができたりする。
もう機能が充実していることには驚かないが、パソコンとして考えると画面が小さすぎて使いにくい。むしろガラケーの方が画面が小さいことに特化してソフトが作られていて、実用的には便利だった。たとえば、新幹線の切符はガラケーから簡単に買えるようになっていたが、スマホではこれができない。新幹線の切符を買うには、一々、パソコン用のネット予約サイトを使う必要があるが、さすがにスマホの小さい画面でパソコン用のサイトを表示するのは難しい。
と、いきなり説明なしに始めたけれど、「ガラケー」だの「スマホ」だの、いささかネーミングとして品が悪い。ガラケーはガラパゴス携帯電話。ガラパゴス諸島の生物のように閉ざされた日本という市場で独自に進化をとげた高機能携帯電話のことをいう。「スマホ」はスマートフォン。パソコン機能も兼ね備えた携帯電話のことだ。ねんのため。
スマホを買って、一番便利に使っているのがスケジュール機能である。スケジュールをパソコンで管理し、それをクラウドのサーバーに保存すればスマホからでも閲覧したり、書き込んだりできる。スケジュールは基本的にパソコンの大画面とフルキーボードで効率的に管理して、外出先ではスマホでスケジュールの確認をしたり新しい予定を備忘として書き込む。この使い方はパソコンでスケジュールを管理するようになってから、ずっと思い描いてきたものだ。しかしなかなかいいソフトやシステムがなかった。
スケジュール管理には手帳代わりに使えるその名も電子手帳というものもあった。しかし、電子手帳では、いったんそれを使い始めるとスケジュール管理は電子手帳でしかできなくなる。パソコンで管理したスケジュールは電子手帳では使えなかった。もちろん常に電子手帳を持ち歩いて、電子手帳にスケジュールを集中すればいいのだが、あの電子手帳の小さい画面でスケジュールを入力する気にはなれなかった。しかたがないので、パソコンで管理したスケジュールを出張前にプリントアウトして持ち歩いたり、メイルでスケジュールを自分の携帯宛に送ったりして、なんとかダブルブッキングを防いできた。それがスマホですべて解決なのだ。パソコンで普通に管理したスケジュールがスマホでも完全に連動してしまえる。
スマホはもはや携帯電話ではなく、「電話機能も使える情報端末」といっていい。もちろん、「電話機能も使える情報端末」というのはガラケーの時代から言い古されてきたが、ガラケーの時は「あえていうならば」という留保つきのところがあった。スマホはパソコン並の機能を常に持ち歩いているという意味で、真に情報端末の名にふさわしい。それが電波で常にインターネットとつながっているという点でやはり革命的だ。ガラケーのようにガラケーのみのネット世界で閉じていない。パソコンの作るネットワークという広大な世界ともシームレスにつながっているのだ。
こんなものをみながみな腰にぶらさげて、あるいはポケットにつっこんで歩くという時代、本なんか売れるわけはないなあ。